ドイツでは毎年ブックフェアが開かれている。
 世界最大のブックフェアである秋のフランクフルト・ブックフェ
ア(ブッフメッセ)と、春に開かれるライプツィッヒ・ブックフェ
アだ。

 震災から一週間後の2011年3月18日、ライプツィッヒ・ブックフェアに
行ってきた。

 ライプツィッヒ・ブックフェアは日本人にあまり知られていない
。フランクフルトでは出版版権の売買が目玉であり、世界各国から
出版社や版権エイジェンシーが大挙してくる。いわば同業社向けの
展示会である。一方でライプツィッヒ・ブックフェアは訪問客のほ
ぼ100%がドイツ人という「読者向け展示会」である。世界に向け
たブックフェア、国内に向けたブックフェアという大きな違いがあ
る。

 会場内では随所で朗読会が開かれ、その他読者を楽しませてくれ
る展示や商店が数多く軒を連ねている。

 ライプツィッヒは古くから出版社や大学があり、また音楽の都と
しても栄える文化都市だ。ときには「小パリ」とも呼ばれる小さな
街である。岩波文庫の原型となった「レクラム文庫」を出版する老
舗はライプツィッヒにある。ライプツィッヒ大学はかつてはゲーテ
が通っており、ライプツィッヒ時代の彼の体験は『ファウスト』と
して描かれている。また、この大学はニーチェの母校でもある。さ
らに、大バッハが晩年をカントル(教会指揮者)として過ごしたト
ーマス教会や、専属の少年ソプラノ合唱団「トマナーコーア」、メ
ンデルスゾーンが初代主任指揮者を務めたコンサートホールのゲヴ
ァントハウス、東西ドイツ統一を導いた市民デモの火種となったニ
コライ教会など、音楽と文学を中心に、市民の文化的自意識が高い
街である。

◎聖トーマス教会に鎮座する大バッハ像
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◎市街中心にある旧市庁舎
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 ライプツィッヒは旧東ドイツの街なので日本では長らく知名度が低
かったが、いまでは上記のような盛りだくさんの内容から、各国
からの観光客が途絶えない。東西ドイツ統一後には真っ先に都市開
発の手が入り、街の周囲にはビルが建造され、郊外には大型ショッ
ピングモールや見本市会場などが次々に出現した。

 ライプツィッヒは、寄宿していた友人宅のあるナウムブルクから
アウトバーンで1時間弱の距離にある。友人の両親のコンラート・
シュミット、ブリュンヒルデ・シュミット夫妻と孫のエリアス君の
3人に車で送ってもらった。

 20年前に友人宅に寄宿したときにもライプツィッヒまで車でコン
ラートに送ってもらった。このときはライプツィッヒ空港からモス
クワ経由で東京に帰った。20年前にも孫のエリアス君が同伴だった
が、そのとき彼は2歳だった。月日がたつのは早い。

 友人のマティアスとその父親のコンラートは2006年に来日し、そ
れ以来の再会だった。来日時彼らは新越谷駅前のビジネスホテルに
泊まり、近所の健康温泉や駅前の和民(健康温泉と和民は彼らの評
価が高かった)に入り浸ったり、地元の小学校や神社を訪問したり
と、越谷ライフをともに過ごした。彼らとは思い出が多い。

 アウトバーンを下りて市街地に入ると、路面の線路やアスファル
トのつぎはぎにハンドルを取られながら、車はライプツィッヒ駅へ
の進路を見失った。行きつ戻りつで、ようやく駅に着き、別れた。
9日間のナウムブルクではシュミット家にはお世話になりっぱなし
だった。

 ライプツィッヒではアパートに宿泊した。見た目は団地風なのだ
が、コンシェルジェがいてカフェーがあり、住民同士でカーシェア
リングできたりという、「集合住宅なのに近所づきあいができる」
ことをコンセプトとしたアパートだ。ブックフェアの季節はライプ
ツィッヒの宿泊施設の金額が一気に跳ね上がるので、安いところが
あると、ライプツィッヒの友人が手配してくれた。

 翌朝、駅に向かった。駅で1.3ユーロのコーヒーを飲み、ブック
フェアの会場に行くためにランチ用のパンを買い込む。
 路面電車を待つものの猛烈な混み具合で、4車両は見送った。路
面電車のドアが開く位置がまちまちなので、どこで乗ってよいのか
わからず右往左往した。

◎街を行き来するレトロな路面電車
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 会場に入ったのは10:30だった。
 激しい混み具合にここでも驚いた。
 会場では各ブースで朗読会が行われ、参加者は熱心に耳を傾けて
いる。

◎ブックフェア会場の入り口。大勢が詰めかけている
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 電子ブックはほとんど見られず、オーディオブックの展示が圧倒
的に多かった。なかった。

◎オーディオブックの展示が目につく
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 テレビ局のブースが各所で大きく陣取っていた。各々でアナウン
サーを招き、作家や評論家を迎えて丁寧に本の紹介をしている。ド
イツはグーテンベルクの伝統を受け継ぐ「本の国」なのだと感心し
た。テレビでももちろん、番組のプログラムはブックフェアばかり
だ(同じぐらいに日本の震災の話題で持ちきりだ)。

◎テレビ局が主催する座談会ブース
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 路面電車の車内でも多数いたが、コスプレの男女の数がすごかっ
た。まるで秋葉原にいるようだった。アメリカかぶれという言葉が
あったが、これは「日本かぶれ」なのだろうか。日本文化の浸透ぶ
りには目を見張るものがあった。

◎会場の随所でたむろするコスプレ少女たち
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◎会場では日本語(ダイスキ)がよく見られる
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◎ここはアニメのブース
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 会場に入りどこから見ようかと地図を物色していたら、「日本カ
フェ」(Japanisches Kafee)というのがあったので、そこを目指
す。

 ホールが5つあり、そのうちの1ホールの1/4がアニメ漫画同人誌
のコーナーになっていた。その入り口にJapanisches Kafeeがあり
、のぞいてみた。すると、昨日ライプツィッヒの友人のママからい
ただいた新聞の切り抜きにあった「協心」という書道を掲げて震災
の義援金を募っている日本人女性とドイツ人男性の活動家夫婦がブ
ースを構えていた。

◎「日本カフェ」で日本の震災の義援金を集める活動家夫婦と私6.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次に漫画同人誌ブースを回る。コスプレの男女が群れとなり、各
人は漫画の古本やアニメのグッズを物色している。そして各ブース
では日本への義援金の募金箱が置かれている。

◎同人誌のフリマ。DOJINSHIがすでにドイツの外来語になっている7.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎日本の国旗を掲げ、ここでも震災の義援金を募っている7-1.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎ここでも日本語が登場
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 テーブルでは大勢の少年少女がトレカを楽しそうにやっている。
 コスプレの男女はおのおの好きなポーズをとり、参加者に写真を
撮られている。
 ショップのブースでは、フィギュアが山のように積まれている。

◎フィギュア屋さん。「ミニ秋葉」の様相を呈している
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◎店員さんもコスプレ
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◎コスプレイヤーは会場内でも人気者
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◎トレカに興じる子供たちの姿は万国共通
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 それらを見て、非常に感慨深いものがあった。彼らは日本のこと
をどこまでわかっているのだろう。アニメやコスプレが日本発祥の
文化であることを知らずにやっている少年少女も多かろう、しかし
、彼らが日本人の創ったコンテンツを愛していることは事実だ。言
語や宗教、国境、生活習慣を超えて浸透していくメディアやコンテ
ンツの力は計り知れない。戦争と平和、不幸と幸福、すべてはコン
テンツで作り上げることができるのではないかという、コンテンツ
が秘める強い力を体感した。

日本の強みをソフトウェア開発とコンテンツ開発に生かす
 東日本大震災をきっかけに重要度の高まったスマートグリッドと、
そして、日本のお家芸である物作り文化が、今後の日本復興の鍵を
握っていると私は考えている。

 戦後は、自動車産業に代表されるハードウェア(工業製品などの
手で触れられる物体)の物作りが日本の産業を牽引していた。
震災後の日本は、ソフトウェア(アプリケーションプログラムや
コンテンツといった創造的なアイデア、知的財産)の物作りに、
いままで以上に力を発揮する。

 日本人には「物作りの精神がある」といわれるが、これには
どういった意味があるのだろうか。

 スペースシャトルやジャンボジェット機を作るアメリカ人にも
緻密な工程管理や徹底した標準化による見事な物作りの精神は
あるし、精密な腕時計を作るスイス人にも伝統的な物作りの
精神はある。ドイツには厳格な職人(マイスター)認定制度が
あって、ビールから自動車にいたるまであらゆる場に物作りの
精神が生きている。

 日本人の物作りの精神が西洋人と根本的に違うのは、「物体を
作るのに物体を作るにあらず」が精神的に根付いている点に
あるように感じる。工業製品を作るにしても、日本人は精神面を
重んじる。仏師や能面打ちのような、魂を物質として外化する
という心の状態が物作りの精神に宿っている。その目的は、
見る者の心を動かす、つまり、心を豊かにするためである。
物質を媒体として人の心を豊かにするのだ。工業製品ならぬ
工芸品作成の域に達しているように見える。

 典型的な例がある。
 戦後のベンチャー企業である本田技研工業は、創業時はオート
バイメーカーとしてのスタートだった。同社は自転車に簡易的に
補助エンジンを取り付けた「原動機付自転車」で戦後の復興に
大きく貢献した。高度成長期には大胆なデザインのオートバイを
次々に発表した。創業者の本田宗一郎は自ら寺社仏閣を視察し、
そのフォルムや色彩を車体のデザインに採り入れた。レースの
世界では「時計のような精緻さ」といわれる精密かつ個性的な
メカニズムのマシンを丹念に作り上げ、数々の勝利を収めた。
そのパフォーマンスは伝説や物語を生み、世界に夢と感動を与え
続けた。その成功をテコに、本田技研工業はオートバイメーカー
から自動車メーカーへの大胆な転身に成功したという歴史がある。

 戦後の日本のコンテンツ文化を支えてきたアニメーションに
目を向けてみると、ここでも物作りの精神を見ることができる。
セル画を一枚一枚丹念にトレースして着色し、子供番組を大量
生産するという文化は日本独特のもので、欧米には存在しない
(ロシアや東欧には人形アニメ文化があり、アメリカにはディ
ズニーアニメの文化があるが、制作された本数は日本のアニメが
桁違いに多い)。戦後日本のアニメ文化は子供たちに夢や感動を
与え続けてくれたし、現在では世界の日本アニメとして海外の
ファンに夢や感動を与えている。

 このように日本の物づくりのベースには本来、丹念にものを
作り上げ人の心を動かすという、工芸品制作にも似た精神性が
根付いている。

 そしていま、日本の物づくり文化が復興に貢献し、世界中の
人々に夢と感動を与えることができるのだ。すでにマンガや
アニメ、ゲームといった日本発のソフトウェア文化は世界に
認知されており、巨大な産業を形成している。世界の店舗には
日本のマンガやゲームが並び、ハリウッド映画には日本のキャラ
クターが提供される。30年前には想像もつかなかった。そんな
時代である。

 震災を通して多くの尊い人命とともに、家屋や施設、金品と
いったハードウェア(物体)が国土から失われてしまった。
そこに残されたものは、人間が持つソフトウェア(創造的性)
だけだ。
 今回の震災によって人々はより強く、このことに気づいたはず
だ。人が心の中から生み出すものの尊さを。

 そうした人間の創造性を復興のために発揮する場を私たちは
持っている。それがスマートグリッドだ。すでに国内の大手電機
メーカーや商社などがスマートシティ構想を掲げ、新興住宅地の
生活を代替エネルギーとスマートグリッドでまかなうという
プランができあがっている。スマートグリッドにより電力を
中心としたコミュニティが生まれれば、そこには生活の新しい
パラダイムが生まれる。スマートグリッドを備えた町が日本
各地に現れ、それが「当たり前」になる。

 1990年代なかば、日本にインターネットが普及しはじめた
ころのことを思い出してみるとよくわかる。インターネットは
当時、「一部のマニア向けのもの」だった。安全性や信頼性の
観点から、仕事でインターネットを使おうという発想自体が
ナンセンスだった。その好例がマイクロソフトである。この時期、
マイクロソフトはパソコン通信に拘泥した(ちなみにMSNの
前身はパソコン通信だった)。ところがビル・ゲイツはビジネス
主体をインターネットへ切り替えることを突如決断した。その後
同社はインターネットの発展とともに劇的な成長を遂げることに
なる。

 それから10年足らずでインターネットは仕事や生活に欠かせ
ない「当たり前」のものとなった。このように、技術の発展は、
人の想像を絶するスピードで、人の予測のつかない形で進展し、
浸透していく。

 日本にはソフトウェアやコンテンツの開発において、世界レベ
ルの優秀な人材が数多く存在する。そうした人たちがリーダー
シップをとること。そして、スマートグリッドによって巨大化した
インターネット空間に、ソフトウェアやコンテンツを開発・提供
すること。ソフトウェアとコンテンツの開発者たちは物作りを
通して日本の復興に貢献すること。

 たとえば、インターネット上にはメールやWebページ、掲示板
からはじまり、チャットやブログ、SNSなどと、コミュニケー
ションの道具が日々進化していった。これに伴ってインターネット
では物品の売買ができるようになり、クレジットカードによる遠隔
決済も可能となった。ものすごい速度でインターネットはより
身近になり、より使いやすくなった。さらに身近で、生活を豊かに
するシステムやインフラを、ソフトウェア開発者が作り出し提供
すること。

 そして、より身近になったインターネット上に流れるコンテンツを、
コンテンツ開発者が作り出し、提供すること。映画やドラマの電子
化、書籍や雑誌の電子化といった既存メディアの再流通だけでなく、
インターネットに特化したオリジナルのコンテンツを開発すること。
インターネットだからこそ楽しいというコンテンツを作り出し、
夢と感動を提供し、人の心を豊かにすること。

 そして作り出したシステムやインフラ、コンテンツを、海外に
輸出すること。これらは、日本が自国の強みを生かしながらすぐに
できることだ。

                * * *

 3月、私がドイツ・ナウムブルクの町を去る最終日、シュミット
一家の長男であるダニエルは別れ際に、ザルツシュタンゲという
自家製の塩パン一袋とミネラルウォーター1瓶、そして「渡そうと
思って買っておいた」というヘレーネ・フィッシャーのデビュー
CD(ロシア出身の流行歌手。同CDはドイツ語圏で52万枚を売り
上げた)を土産にくれた。

 最後に「義援金だから持っていってくれ」と、彼は私のポケットに
50ユーロをねじ込んできた。帰国後すぐに両替し、職場近くの三菱
東京UFJ銀行で送金した。

 シュミット一家はいま、地球の裏側で起こった大惨事をどう受け
取り、どう記憶しているのだろうか。ニュースを見れば震災の惨状が
刻々と報道され、その当事者である私を目の前に、顔色をうかがい
ながら生活をするという日々をともに過ごした。彼らも間接的に、
日本の震災をともにした。彼らにとって複雑な思いだったに違いない。

 日本が7月のサッカー女子ワールドカップで優勝したという
歴史的な快挙は、日本人だけでなく、決戦地のドイツ国民らにも
夢と感動を与えた。日本の優勝が決まった直後、ドイツの友人から
「日本の優勝はドイツ人たちもすごく喜んでいる」と興奮気味の
メールが早速届いていた。ドイツ人らを喜ばせた理由の一つに、
日本人は未曾有の震災にあっても不屈の精神力を保ち、その精神力で
勝利を導き出した、という連想があったはずだ。

 震災で注目された日本人が、自らの積極的な態度を見せる。言い
換えれば、スポーツという言語を超えた表現で、日本人は自分らの
心のあり方を世界に伝えたのだ。

 スポーツだけではなく、多かれ少なかれ、私たちはつねに
「他国から見られている人」である。と同時に、「他国を見る人」
であること。こうした意識を持ち続けることで、震災後の私たちが
どういった行動を取るのかが、自ずから見えてくるはずだ。

 私たちは、インターネットにより、物作りにより、ソフトウェア
により、コンテンツにより、震災での体験を整理し、再構築し、
輸出し、情報共有する。それは生命の安全のためであり、過酷な
状況下での生き方の教訓を伝えるためであり、国土やエネルギー・
食料といった私たちが生きていくためのインフラの安全のため、
社会の安全のためである。

 生命の源である心をいかに豊かに保つか。そのための知恵と
情報を共有すること。これは人類共通の知的財産になる。

 最後に、東日本大震災で亡くなられた方々には心からのご冥福を
お祈りする。家財や職業を失われた方々の、また、さまざまな
喪失感にとらわれた人たちが一日も早く苦しみから解かれることを、
心から願っている。

 福島第一原発の事故を境に、ドイツの政治は変わった。
 ドイツだけではない。東日本大震災は世界中に衝撃を与えた。
そして各国は、「震災の当事者である日本人がどういう選択肢を
取るのか」に注目する。
 今度は、震災に対し日本人が取る態度が、海外に影響を
与える番だ。日本の復興は私たち自身の問題であると同時に、
世界の問題でもある。

脱原発の意味
 日本は過去に2度、原子爆弾投下のターゲットとなった。
人間が人間の殺戮を目的に使用した初の原子力だった。以来、
日本人には原子力への嫌悪が植え付けられていたが、原子力の
平和利用という旗印のもと、日本国内に55基の原発が建造された。
その数はアメリカ、フランスに次いで世界第3位だ。

 震災という自然の脅威により、再び日本人に放射能の恐怖が
襲ってきた。そして日本でも、脱原発という言葉が聞かれるように
なった。

 東日本大震災の後に脱原発を真っ先に宣言したのはドイツ
だったが、ドイツと日本では脱原発という言葉の意味あいが根本
的に異なる。ドイツの原発の数は日本と比べてはるかに少ない。
また、ドイツは日本のような島国ではなく、不足した電力は
フランスやロシアなどの近隣から買い取ることができる。電力の
8割近くを原発に依存するフランスは売電をビジネスにしている
ぐらいだから、ドイツは間接的に原発に寄与しているといえる。
厳密に言えば、ドイツの脱原発とは原子力エネルギーからの本質
的な脱却を意味するのではない。しかし、エネルギーと安全に
対する一つのあり方(チェルノブイリ原発事故の教訓、人間の手で
環境を守るという意志)の表明として、ドイツの脱原発には意味が
ある。では、日本の脱原発という言葉にはどういった意味があるの
だろうか。歴史的背景、地理的背景を鑑みても、その意味ははるかに
重たい。これは突き詰めて議論する必要がある。

 そして、日本の脱原発までの既存の原発の安全性確保を具体的に
どうするか。これも議論の重要なテーマだ。
 そうした議論をふまたうえで、再生可能エネルギーへの取り組みを
行うべきではないか。

 日本は太陽光発電では世界トップレベルの技術力を持ち、風力
発電に関しても高い技術力を持つ。技術面やコスト面で普及には
課題が多い。しかし新技術の実用化にはいつでも困難が伴う。人類は
いままで数々の問題を技術と知恵で乗り越えてきた。歴史的に
見ても、技術の発展には人間の強い創造性とそれをさらに拡大
しようとする強い意志が伴い、困難を克服してきた。

 技術の発展とは、言い換えれば、経済成長、生産性の向上、経費
節減のための手段でもある。世界的な同時不況がやまぬ中、震災に
遭遇し、私たちは次のことに気づいたはずだ。人間に最も大切なのは
経済成長ではない。大切なのは、生きていくこと。私たちは、
使えて当たり前のエネルギーが使えなくなるという危機に直面し、
さらに、エネルギーだけでは生きていけないということにも気づいた。
心を豊かにする言葉や映像、音楽といった「情報」がなければ、
人は生きていけないと。

 エネルギーと情報の問題を解決するソリューションがある。
後述する「スマートグリッド」がその決定打になる。

スマートグリッドが日本復興の鍵を握る
 スマートグリッドとは簡単に言えば、「エネルギーがどこに
余っていてどこに不足しているかという情報の交換にインター
ネットを使い、エネルギーを融通しあう」システムである。

 たとえば、各家庭や市町村レベルで太陽光や風力などの発電
設備と蓄電池(や蓄電池を持ったEV)を備えれば、余った電力を
蓄えたり、他人に売ったり電力会社に売ったりすることができる
のだ。それを司り、再生可能エネルギーをより有効活用するシス
テムが、スマートグリッドだ。

 スマートグリッドが実現すれば、家電の利用状況を管理するため
に、テレビ・冷蔵庫・炊飯器・洗濯機など、すべての家電がインター
ネットに接続される。現状ではパソコンや携帯電話類がインター
ネットに接続されたおもな家電になるが、それが「すべての家電」
になる。これによりインターネット空間のスケールは爆発的に拡大
する。

 巨大化したインターネット空間を使い、個人がネットオーク
ションで自宅で発電した電力を売買したり、ネットショップで電力に
無農薬野菜をセットにして販売したり、格安航空券のように売れ
残った電力を激安販売することも可能となる。

 これに伴って電力を軸とした独自のコミュニティが形成され、
市町村を超えた人と人とのつながりが生まれる。

 「インターネットは私たちの生活に劇的な変化を与えたが、
それはスマートグリッドが実現されるための前置きにすぎない。」
こう言われるほどの強烈なインパクトを持つシステムが、スマート
グリッドである。

 すでにスマートグリッドの技術開発には米GoogleやIBM、
マイクロソフト、シスコシステムズなどのIT大手がしのぎを削って
おり、日本にもようやく動きが出てきた。5月には東芝がスマート
メーター世界最大手のスイス企業ランディス・ギアを買収している。
スマートメーターは通信機能を備えた電力計で、スマートグリッドを
実現するのに欠かせない機器だ。

 ところで、「発電インフラが強固で停電の少ない日本にスマート
グリッドは不要」という意見もあるが(スマートグリッドの本家アメ
リカでは停電が多い)。さらに聞かれるのは、「代替エネルギーは
コスト面で採算が合わないから実現は困難」という意見だ。果たして
これらは本当だろうか。

 まず、前者に関しては、今回の震災で中央集権型発電のもろさが
露呈し、それに依存しきれないことはすでに証明されている。

 そして後者に関しては、スマートグリッドが生み出した価値により、
割高と言われる代替エネルギー発電のコストをまかなうことができる。
たとえば、「個人による電力の売買」を例にすれば、電力売買の
サイトに企業の広告を掲載し、その広告収入で代替エネルギー発電の
コストを一部相殺する。オークション利用料や電力売買の手数料の
一部を発電コストに充てる。コミュニティでファンドを形成して
その利益を発電コストに補填する。可能性はいくらでもある。

 また、日本人は根本的に、国土の狭さや資源の乏しさから、
「省エネ・もったいない意識」がきわめて高い。その意味でも、
みんなで作ったエネルギーを細大漏らさず活用するというスマート
グリッドの思想に日本人の心の親和性は高い。

(続く)

 前回は、私個人の目から見えた東日本大震災以降のドイツ人の
様態を報告した。

 今回は時系列で、メディアを通して見たドイツ人たちの行動を
追ってみる。どのような行動を取ったのだろうか。これはわれわれ
日本人の未来を占うことになるかもしれない。

                * * *

 東日本大震災・福島第一原発事故の翌日3月12日、バーデン・
ヴュルテンベルク州で大規模な反原発デモが起こっている。

 バーデン・ヴュルテンベルク州といえば、ダイムラーやボッシュ、
ポルシェ、SAPといった世界的な大企業の本社が林立するドイツ
連邦16州の中でも超エリートの州である。

 同日、バーデン・ヴュルテンベルクの州議会議事堂とネッカー
ヴェストハイム原発との間45kmの区間を6万人のデモ隊が行進を
行っている。ルードヴィッヒスブルクの城の周囲には1万人の
反原発市民が、メルケル連邦首相の下した原発稼働期間延長に対して
シュプレヒコールで激しく抗議した。

 活動団体ケムペクト代表クリストフ・バウツ氏は次のように
コメントしている。

「日本の不幸による大きな精神的打撃は、人々を沈黙させず、むしろ
人々を路上に駆り立てた」

 ドイツに17基ある原発のうち、11基がバイエルン州とバーデン・
ヴュルテンベルク州で稼働している。この地域でのドイツ市民らの
原発への視線は敏感だ。そしてまた、バーデン・ヴュルテンベルク
州の反原発デモが、以降のドイツの政権転倒に大きな役割を演じる
ことになる。

 2週間後には州議会選挙を控えており、脱原発に対して消極的な
態度をとり続けてきたキリスト教民主同盟(CDU)のメルケル連邦
首相とバーデン・ヴュルテンベルク州首相のシュテファン・マップ
スはデモに遭遇し、「原発の稼働期間を引き延ばす者は、自らの政権
の生命を短縮させる」という危機を認識しはじめる。

 震災から8日後の3月19日、メルケル首相は状況の深刻さと自ら
の立場を意識し、稼働中の7基の原発の即時停止を決定した。さらに
隣国のスイス政府も、原発の改修工事の見直しを表明する。

 3月21日、デモの規模はふくれあがり、14万人を超える市民らが
全国でデモを展開する。

 デモの波は大都市にも伝播する。
 3月26日、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ケルンでは
25万人を超える市民が街をねり歩き、震災の起きた時刻には黙祷を
捧げている。

 3月27日、バーデン・ヴュルテンベルク州の州議会選挙の日だ。
 首都ベルリンでは10万人を超えるデモ隊がホイッスルを鳴らし、
「原発は生命を破壊する」「福島はどこにでも起こる」と書かれた
横断幕を手に、市街中央を行進する。

 バーデン・ヴュルテンベルク州の州議会選挙の最大の争点は
脱原発である。

 選挙の結果、メルケル首相率いるCDUは歴史的な惨敗を経験する。

 反原発を掲げた緑の党が24.2%という史上最高の得票率を手にし、
同州で58年間単独で支配しつづけたCDUは、現職州首相の座から
引きずり下ろされる。

 バーデン・ヴュルテンベルク州は、第二党の緑の党と第三党の
社会民主党(SPD)との連立で政権が握られることになる。

 そして5月12日、バーデン・ヴュルテンベルク州議会は、州
首相に緑の党のヴィンフリート・クレッチェマンを選出した。
 緑の党から州首相が選出されるのは1980年の党設立以来初の
快挙である。

 6月21日には、福島第一原発の事故を受けて早期の脱原発を
発表。2022年までに現在稼動中の17基すべてを順次止めることを
決定し、2050年に自然エネルギーで電力の8割をまかなうことを
目標とする。ちなみにドイツは原発で23%の電力をまかなっている。

 そして7月8日、ドイツ連邦参議院(上院)は2022年までに
国内の全原発を停止する改正原子力法案に同意した。これで
正式に「脱原発」が法的に成立した。

 ドイツでは運転を停止している旧式の8基はこのまま閉鎖し、
残る9基についても、2015、2017、2019年に各1基、2021、
2022年に各3基を順次停止していくという計画だ。

 以上、東日本大震災をきっかけにドイツで反原発運動が活発化し、
保守政権の難攻不落の牙城であるバーデン・ヴュルテンベルク州に
歴史に残る政権交代が起こり、ドイツ政府の脱原発、代替エネル
ギーへの切り替えのロードマップが作り上げられたこの4ヶ月の
流れを駆け足で見てきた。

(続く)

 2011年3月、仕事でドイツに行く機会があり、プライベート
タイムに現地の友人であるシュミット家に居候させていただく
ことにした。シュミット家とは23年のつきあいがあり、彼らは
代々ケーキ職人としてケーキ屋を営んでいる。

 友人宅はザクセン・アンハルト州の南端に位置するナウム
ブルクで、ニーチェの生家や大聖堂があることで名の知れた町だ。

 ある夜、シュミット一家と夕食を食べながらチェコのビール、
Pilsner Urquell(ピルスナー・ウルケル。日本でもよく売っている)を
飲みながら談話していた。

「チェコでビール飲みたいな。」
「いいね。じゃあプラハ行くか!」

 この一言で3月10日、プラハに行くことが軽いのりで急遽決まった。

 早朝に起きて荷物を詰め、パスポートを持って東に向かった。
 アウトバーンに乗っていったんドレスデンを目指す。友人は安全
運転なので時速100km程度で右側車線をのんびりと走る。我々の
乗る日産アルメーラは追い越し車線からすごい勢いでアウディや
BMWに追い抜かれる。

 友人(正確には友人の父親で、70歳過ぎ。私の父親ほどの年齢)の
コンラートは旧シレジア(現ポーランド)のブレスラウ近郊生まれで、
気分が乗ってくるとCDをバックにシレジア民謡を口ずさむ(ちなみに
彼の奥様のブリュンヒルデは現チェコの旧ズデーテン生まれ)。

 2時間ほど走るとドレスデンに到着した。駐車場を探して車を止め、
トラムと徒歩で駅に向かう。その間、旧東ドイツ時代はがれきの山で
現在は再建された聖母教会、エルベ川を見ながら少しだけ街観光をした。

 1991年にも私は一度ドレスデンを訪れたが、そのときと街の雰囲気が
まったく変わっていた。銀色に輝く建造物、ファーストフード店、
スポーツクラブやブティック、ショッピングセンターなどなど。
どこにでもある大都市の趣であった。友人も「ドレスデンは変わったよ」
と言う。ドイツ経済は危機的な状況を迎えているとはいえ、1991年
当時の、統一直後のドレスデンとは比べものにならないぐらいの活気に
あふれている。街の人々の笑顔が印象的だった。

 列車が来るまで駅で食事をしながら時間をつぶす。
 プラハ経由ウィーン行きの急行列車が来たのでそれに乗り込む。
 川沿いにそびえる砂岩の断崖を左手に見ながら、知らないうちに
ドイツの国境を越えチェコに入っていた。国境では物々しい警棒を
持った軍人が来ることはなく、荷物検査もパスポートコントロールも
なかった。これらは共産主義時代に行われていた国境通過の儀式だった。

 友人は私と顔を見合わせて言った。

「平和はいいな!」

 友人は戦前生まれだから、ナチスの時代も知っているし敗戦も
知っている。ドイツの東西分割も知っているし再統一も知っている。
いわば歴史の生き証人だ。彼の口から出た「平和はいいな」の一言は
はるかに重たい。

「プラハとポーランドが私らに統一と自由をもたらしたんだよ」とも
よく言っていた。1968年の「プラハの春」とポーランドの1980年
「連帯」は、旧東側諸国に自由という発想をもたらした、東西ドイツ
統一の原点である。

 友人はたびたびこうも口にしていた。「自由はすばらしい。どこにでも
旅行に行けるし、なんでも食べられるんだから」

 談話を続けること2時間、列車はプラハ中央駅に到着した。
 1988年にもプラハには来たことがあるが、宿が見つからず駅で
寝ていると警官に追い回されたり、翌朝宿を探しに行ってもどこも
満室だったりと、最悪の思い出しかなかった。

 あれから23年。すっかりプラハも変わっていた。きれいな街で、
にこにこと人々は笑っていた。

 友人に「みんな笑っている。愛想がいい。」というと、「自由だから
だよ」との答が即返ってきた。

 私も友人もいささか浮かれ気味で、ホテルを探して荷物を置き、
日が傾いてきたからレストランを探しに街に出る。ヴァツラフ広場
付近に中世の剣と盾が飾られた古風なレストランがあったのでそこに
入り、ビールとシチューを注文する。食後にはチェコ名物の薬酒
ベヘロフカを飲む。食後に飲むと胃腸の具合がよくなると言われるが、
アルコール度数が高く、実際には不調になる場合が多い。

 何杯ビールを飲んだか酔って忘れたが、店を出ると「おまえと
プラハに来ることができてよかった。最高の夜だ!」と友人と
抱き合って喜んでいたことだけははっきりと覚えている。

             * * *

 翌朝の3月11日、目が覚め、ホテルのビュッフェに朝食を食べに行った。
 二人とも少々二日酔い気味で、シリアルやらパン、フルーツを皿に盛る。
 天井には液晶テレビがつり下げられていて、お客ら全員の視線が
そこに釘付けだった。

 私も目をやると、日本のニュースだった。東北の津波の映像である。
 地震による津波で、死者が100人とあった。
 友人もその映像に見入っていた。
 そもそもチェコには海がない。珍しい自然現象を映像を見て驚いて
いるのと、100人の死者という現実に彼らは唖然と見入っていたのだ。
私も100人の死者が出る津波は大変なことだと、ニュースを真剣に見ていた。

 この日は昼まで観光し、カレル橋を渡ってカフカ博物館に行く。
土産を買って葉書を書き、再びドレスデンに戻った。ドレスデンで
車を拾い、ナウムブルクまで向かう道中でも、東北の地震のニュースが
ラジオからひっきりなしに流れている。そのたびに死者の数が増えていく。

 200人、500人、1000人......。

 友人との楽しいはずの観光ムードが一気に消え去っていった。

 テレビをつけても東北の津波の映像ばかりだ。それどころか、
原発が煙を上げている映像までも流れている。友人一家とケーキを
食べながら雑談していても、バックにニュースが流れたとたん、
会話が一気に沈黙となる。

 ニュースの内容は、刻々と、原発問題がおもなものへと変化してくる。

 友人は「原発は平気か」と、日本のことをしきりに心配している。
 メディアは、ドイツの世論が反原発であることと、今回の日本の
震災のことを重ね合わせ、「原発に依存するとこうなる」という
一種のプロバガンダの意味合いを込めた映像を間断なく流す。
情報空間の閉ざされた私のような日本人にしてみたら、こうした報道は
恐怖以外の何物でもない。

 友人宅で手厚い歓待を受けながら5年ぶりの再会を楽しむつもり
だったが、震災を境に日本人である私を取り巻く空気が大きく
変わった。

 町を歩いていると地元の中学生までもが、私が日本人であることに
気づくと驚いた表情で声をかけてくる。「日本は大丈夫か」と。

 ワイマールでは友人がティーポットを買うというので宝飾店に
同行すると、店員の女性と震災の話になった。彼女はテレビの
報道を目にして惨状と恐怖のあまり夜通し泣いていたという。

 デッサウでは航空博物館で、係員の男が私が日本人であることを
知ると、私に向かって、日本は大丈夫だからどうか気を確かに持って
くれなど、涙ぐみながら言葉を投げかけてきた(彼は奥さんが
中国人だと言っていた。アジアへの共感がとくにあったのだろう)。
別れ際には、元気を出してくれと、両手を強く握られた。
他の町でも似たようなことが何度もあった。

 それにしても、このようなドイツ人らの私に対して取った態度は
一体どこから来るのだろうと、たびたび考えていた。私の出会った
ドイツ人たちや、町の雰囲気から判断すると、あたかも自分の身に
降りかかったことであるかのような強い共感を彼らから感じとった。

 煙を上げる福島第一原発、濁流に取り残され間一髪の救助に泣き
叫ぶ女性の姿。これらの映像が終日繰り返しテレビから流されて
いる。そこにときおりチェルノブイリ原発の事故映像がモンタージュ
される。

 私自身、ネット以外にテレビやラジオから新しい情報を得たい
という気持ちと、映像の悲惨さに耐えられずもう見たくないという
ジレンマに陥った。当の日本人でなくても精神的にかなりこたえる
報道内容だ。甚大な被害を受けた本土の日本人らの心身に与えた
苦しみは計り知れない。身内に実害がなかったとはいえ、情報の
閉塞感から、苦しい思いが続く。情報がこれほど人間を苦しめる
ものなのかと、私は痛感した。

 帰国後に知ったのだが、一部の週刊誌では被災者の死体の写真が
掲載され、記事には「ハルマゲドンに襲われた日本」という見出し
がつけられるなどの品位を欠く内容が含まれ、さらには放射能が
漂ってくるというデマが流れてヨード剤やガイガーカウンターを
買いに走る市民が殺到したりなど、ドイツのメディアは情報が
錯綜していた。町のドイツ人らが私に取った態度にも納得がいった。
日本人だけではない。ドイツ人自身も、日本の震災に心が動揺して
いたのだ。

 なぜ日本の震災はそのような心理状態を、遠く離れた地球の
裏側であるドイツにまで伝播させたのだろうか。報道の仕方よりも、
むしろ事実そのものが彼らの精神を大きく動かしている。

 第一に、地震と津波といったドイツにはあり得ずイメージも
つかない天変地異が起こり、一瞬にして多くの人命が奪わたという
ショックだ。加えて、爆発して煙を上げる原発という、決して
あってはならない映像を見せつけられたからだ。ドイツ人は
原発事故の直接の被害者だから、この先になにが起こるのかを
体で予想できている。

 そう、ドイツ人は1986年、チェルノブイリの原発事故をリアルに
体験しているのだ。彼らにリアリティの高い記憶を想起させる
原発事故と、まったくイメージもつかない地震・津波という
現象の双方が、一気に情報として彼らを襲ったのだ。

 ドイツではとくに、私の滞在した旧東ドイツ地域の被害が
大きかった。旧ソビエト連邦の同盟国であった旧東ドイツ政府では
報道統制が敷かれ、チェルノブイリ原発の事故の事実すらも隠蔽
されていた。

 友人のコンラートはウクライナ産の牛乳や野菜をなにも知らずに
採り続け、6年前、手術で甲状腺を摘出している。そのために毎日
ホルモン剤を服用している。「ウクライナの牛乳と野菜が原因で
あることは間違いない。私は本当に政府を恨んでいる」と、友人は
怒り心頭だ。友人は4人兄弟の長男で、彼も含めて3人が甲状腺を
摘出している。

「兄弟の3人とも甲状腺を取っている。チェルノブイリが原因だよ」

 彼の、怒りを超えた、怒りのやり場を見いだせない悔しさに
満ちた口調は聞いているだけでも辛かった。

 今回の東日本大震災に向けたドイツ人の精神には、友人のような
チェルノブイリ体験を通した強い反原発意識が多く含まれている。

 それはドイツ人のとった態度が顕著に表している。

 3月11日以降、東日本大震災による福島第一原発の事故を
契機に、ドイツ人たちはここ数ヶ月で政権をも揺るがす行動に
出ることになる。日本の震災で政治的に最も大きなインパクトを
受けた国はドイツだった。

(続く)

主要参考図書

 『ニーチェ研究』1~15を書き上げるにあたり、おもに以下の参考図書・URLを使用した。

和書
ニーチェ・レー・ルー ~彼等の出会いのドキュメント~
 E・プファイファー編、真田収一郎 訳(1999年、未知谷刊)
ニーチェ全集(全15巻)
 フリードリッヒ・ニーチェ 著(1994年、筑摩書房刊)
ニーチェの生涯 (下巻 『孤独なニーチェ』)
 エリーザベト・フェルステル・ニーチェ著、浅井真男 訳(1983年、河出書房新社刊)
ニーチェの生涯 (上巻 『若き日のニーチェ』)
 エリーザベト・フェルステル・ニーチェ著、浅井真男 訳(1983年、河出書房新社刊)
エリーザベト・ニーチェ ~ニーチェをナチに売り渡した女~
 ベン マッキンタイアー著、藤川芳朗 訳(1994年、白水社刊)
ニーチェと仏教
 大河内了義 著(1982年、法蔵館刊)
ニーチェの光と影
 ハインツ・F.ペーテルス著、河端春雄 訳(1990年、啓文社刊)
ニーチェの病跡 ~ある哲学者の生涯と旅・その詩と真実~
 小林真 著(1999年、金剛出版刊)
ルー・ザロメ回想録
 ルー・アンドレーアス・ザロメ 著、山本尤 訳(2006年、ミネルヴァ書房刊)
ルー・サロメ 愛と生涯
 H.F. ペータース 著、土岐恒二 訳 (1990年、筑摩書房刊)
ルー・ザロメ著作集1 神をめぐる闘い
 ルー・アンドレーアス・ザロメ 著、(1974年、以文社刊)
ルー・ザロメ著作集3 ニーチェ 人と作品
 ルー・アンドレーアス・ザロメ 著、(1974年、以文社刊)

洋書
Die Dokumente ihrer Begegnung. Ernst Pfeiffer編(1971年、Insel-Verlag刊)
Im Namen Nietzsches. Elisabeth Forster-Nietzsche und Lou Andreas-Salome Dirk Schaefer著(2001年、Fischer刊)
Lebensruckblick.  Lou Andreas-Salome著(1994年、Suhrkamp刊)
Lou Andreas- Salome. "... wie ich Dich liebe, Ratselleben" Michaela Wiesner-Bangard, Ursula Welsch著(2002年、Reclam刊)
Lou Andreas-Salome. Eine Bildbiographie Ursula Welsch著(2006年、Reclam刊)

URL
http://mv-naumburg.de/museen/nietzschehaus
http://www.virtusens.de/walther/
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche/
http://www.lou-andreas-salome.de/index.htm

ニーチェ/トリノ 一八八九年
 ルーと別れてからすでに久しいニーチェはローマにいた。
 悪化がとどまることのない頭痛と眼痛、吐き気を伴った体調不良と
戦いながら、『ツアラトゥストラ』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』を次々と
完成させていた。哲学者・著作家としての彼の仕事は、各方面から
着実に認知を高めていった。もはや彼はヨーロッパの知識人を震撼させる
大思想家の地位へと足を踏み入れていた。

 同時に彼の作風は『アンチクリスト』『偶像の黄昏』『ヴァーグナーの
場合』『ニーチェ対ヴァーグナー』と、しだいに偏執的で個人攻撃の
性質を増し、さらに『この人を見よ』においては、他者の徹底的な否定、
自己の陶酔的な肯定といういびつな表現の目立つ自伝をものし、彼の
文筆家としてのあり方にも顕著な変化が見られるようになってきた。

 社会にハンマーを下ろしたニーチェが、その社会から存在を認知され
大家としてあがめられるようになった。自分が日増しに神聖視される
ことにとまどいながら、天の高みから畜群を見下ろし、ざまあみろと
いわんばかりの思いを得たのも束の間だった。

 一八八九年一月三日、トリノの街をニーチェが歩いているときだった。
 カルロ・アルベルト広場で、激しく鞭打たれる馬車馬に向かって
ニーチェはやにわに走り出した。馭者に向かってニーチェは叫んだ。

 「こんなに優しい馬に向かって、お前は一体なにをしでかすんだ!」
 するとニーチェは馬の首をかき抱き、大声をあげて泣き崩れた。
 一人の男が狂気の河をひとまたぎで渡っていく瞬間を人々の目は冷静に
見つめていた。
 ニーチェのまわりには人だかりができた。警官が駆けつけ、暴れる
ニーチェは羽交い締めにされ、広場の外に連行された。
 ニーチェはついに発狂したのだ。
 数日後、ニーチェから知人たちに奇妙な手紙が送りつけられてきた。

 まず、コージマ・ワーグナーに手紙が届いた。
 「私が人間であるというのは偏見です。私はインドに居たころは
仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。アレクサンドロス
大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだった
こともあります。リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような
気もしないではありません。十字架にかけられたこともあります。
愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」

 ヤーコブ・ブルクハルトは手紙の内容に目を疑った。
 「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身も
ドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムと
ビスマルク、すべての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」

 意味不明なことが書き連ねられた手紙を開いたヤーコブ・ブルクハルトは、
それを持ってフランツ・オーヴァーベクのもとに駆けつけた。

 オーヴァーベクは手紙を読み、悔しさに手が震えた。
 「なんですぐ俺の所に来てくれなかったんだ!」
 異常事態からかけがえのない親友を救うため、オーヴァーベクは
即刻トリノに足を運んだ。ニーチェをバーゼルに連れ戻し、彼の
容態の急変をエリーザベトに連絡した。

 ニーチェのかねてからの体調不良の終着点は、この、発狂という
恐ろしいところまで行き着いてしまったのだ。

 エリーザベトがバーゼルの精神病院で再会した兄の姿はまったくの
別人だった。

 視線は定まらず瞳孔が開き、ただずっと言葉ともつかないおかしな音を
ブツブツブツブツと発している。かと思うとさっと起きあがって、
獣のような奇声をあげてベッドの中で暴れ回る。少しすると突然寝込んで
いびきをかきはじめたりと、人間的な反応を示さない彼の狂気は明らかに
見て取れるものだった。

 医師の診断で、彼は進行性の麻酔症にかかっていることが判明した。
完治の見込みはほぼ絶望的だ。

 のちのニーチェ研究の成果では、彼は脳梅毒にかかっていたという
説が有力だ。普仏戦争の従軍時に感染した、ライプツィッヒで遊んだ
売春婦から感染した、ケルンでの学生時代に遊んだつけが回った、
さまざまな憶測が飛び交うが、いずれも定かではない。

 仮にそれが外部から感染した脳梅毒だとしたら、リンパ腫や発疹
といった初期の症状が記録されていないのが不自然だ。父親も同様に
脳の病気で死んでいることから、もし脳梅毒であるのならば、遺伝性の
脳梅毒感染が元ではないかとも考えられる。

 エリーザベトは兄との悲劇的な再会に涙が止まらなくなった。
 神に死を宣告したばかりの兄は、ついに生命を持つ死人になって
しまった。

 すでに意志を持たなくなったニーチェに代わり、エリーザベトは
兄の代理人になった。ニーチェの生命と反比例して、文筆家としての
ニーチェの名声は日増しに高まっていく。エリーザベトは、出版社からくる
印税を元手に、兄の名誉のために一生を捧げることを心に誓った。

(ニーチェ研究 「女のところに行くのか? ならば鞭を忘れるな!」おわり)

一八八四、『ツアラトゥストラ第三部』、『神を巡る闘い』、『良心の起源』
 一八八四年一月、『ツアラトゥストラ第三部』が書き上がる。
この完成に伴ってニーチェの健康はすこぶる回復し、「生涯の
最も幸せなとき」を体験する。ニーチェは『ツアラトゥストラ』を
しばしば爆弾にたとえる。「数十年間蓄積された力の爆発で、この
爆発で作者もろとも吹っ飛ばされる危険性がある。」と
オーヴァーベクに語る。

 『ツアラトゥストラ』の脱稿を境に、ニーチェの発言に明らかに
変化が現れた。
 ルーに関して言及する。
 「これほど才能豊かな、省察力に富んだ女性に出会ったことはない。
僕とザロメとは三〇分間ともにいるたびに、たくさんのことを
学び合う喜びがあった。」

 ニーチェは初めて、ルーの特異性を受け入れながら、彼女との
関係を彼自身の言葉で語りはじめたのだ。

 「僕が知り合ったすべての知人のうち、唯一ザロメ嬢との交際が、
最も価値のある生産的な交際だった。この交際によって、
ツアラトゥストラまで僕は成熟しえた。......ルーはこの世の中で
最も才能のある、省察力に富んだ女性だ。--もちろん、彼女にも
憂慮すべき性質はあるが、僕とて同様の性質を持っている、
にもかかわらずだ。評判通り、問題となる憂慮すべき性質にある、
あのすばらしさだ。」

 レーについても冷静な評価を下そうとする。
 「レーは思想家として、僕の成長発展のなかに入る人だ。彼の
歩んだ軌跡はある意味で、僕のつくったもの。レーとザロメが
一緒になって、僕に敵対行動をとったのは本当だ--しかし、
僕は妹のもっと始末の悪い行動を許したように、二人のことも
許した。」 

 そしてエリーザベトに関しては、次のように言う。
 「彼女のザロメ嬢の口汚い中傷の言辞に憤慨した......この前の
彼女の手紙のたぐいは、びんたの二つ、三つが当然の報いだ......。
僕をそっとしておいてくれるよう、彼女に一所懸命頼んだ。でも
彼女は一瞬たりとも僕を苦しめることをやめない。......僕はお前を
除いていまだかつて他人を恨んだことはない。」

 これまでのルーを巡る素行に加え、「復讐に燃えた反ユダヤ
主義の女」の妹とは金輪際交流を持たないことを宣言し、旦那と
二人でとっととパラグアイに行ってしまえと、ニーチェは
エリーザベトに三行半を突きつける。

 このころエリーザベトは反ユダヤ主義者のベルンハルト・
フェルスターと婚約しており、この人物とニーチェは馬が合わず、
反ユダヤパンフレットを未来の義弟が送りつけてくるのに憤慨し、
いい加減にしてくれとニーチェがフェルスターを叱責する場面が
しばしばあった。

 オーヴァーベクには、「妹のやらかしたことの償いをレー博士と
ザロメ嬢にしてやりたい」とまで言い、ルーの論文『宗教的感情に
ついて』が雑誌に掲載されることを聞き知り、「すでに僕は
ザロメ嬢のうちにこのテーマを発見していた。タウテンブルクでの
僕の努力が、やはり実を結んだことがたいへんうれしい。」と述べている。

 この時期、彼の仕事を聞きつけて、二人の女子大生が、
南フランスに滞在するニーチェを訪ねてくる。彼は女子大生を連れて
闘牛場でデートを果たしている。仕事を完成させると同時に事件の
解決を自分に与え、ポジティブで自信に満ちたニーチェは男性的で
魅力があったに違いない。

 『ツアラトゥストラ』の脱稿が彼に全身体的なあらゆる変化を
もたらした。一時は命を絶つことも考えたニーチェの目に映る
世界は、すべてがまったく別のものに見えていた。

 メラノに移転したルーとレーの野望も結実した。一八八四年なかば、
ルーは小説『神を巡る闘い』を、レーは一大奮起して論文
『良心の起源』を書き上げる。

 そして一八八五年の初め、レーは『良心の起源』を、そしてルーは
『神を巡る闘い』を、念願の発刊を果たす。ルーは諸々の配慮から、
出版はペンネームで行った。ギロートの名前であるヘンドリクを
フランス風に改め、苗字はギロートからもらった「ルー」を掛け合わせて
「アンリ・ルー」とペンネームで発刊した。

 このころから、ルーとレーのおのおのが持つ運命と才能の強さに、
明らかな違いがあることが目に見えてきた。

 ルーの処女作『神を巡る闘い』は大衆からさほど認められ
なかったが、ベルリンの前衛的な作家たち、とくに自然主義文学の
作家たちからは評価を得ることができた。これによりルーは二四歳にして、
ベルリンの女流作家として文壇入りを果たした。

 神を失った人間たちの自由恋愛を描いたこの作品は、多少
メルヘンチックで舌足らずの感はあるが、老人が過去を語るといった
物語的な仕掛けや、キリスト教社会でのタブーである神という問題を
正面からとらえ、神の否定から自由へと達する煉獄を描くその構想は、
深刻で重々しい。男性名のペンネームが作者の性別を隠蔽しているが、
この作品が二四歳の女性によって書かれたのだと一般の読者が知ったら、
作者はよほどの事情と独自の思想を抱えて生きている人間なのだと
驚くに違いない。

 主人公のクーノーは理想主義者で、自分で創造した神の喪失に苦しみ、
悩まされ続ける。彼にはルードルフという弟がいた。彼はクーノー
とはまったく対称的な気質を持ち、生とは無意味でいかなる宗教も
必要悪だと考える現実主義者でニヒリストだ。クーノーは情熱的に、
死にかかった神を作り上げようとルードルフを説得し、変えていこうと
する。

 クーノーの持つ信仰の問題が、性による倫理の問題へと織り込まれて
いく。
 学生自体にクーノーが出会ったマルゲリータは個人の自由と男女の
平等を追求する女だ。クーノーは友情により互いのプラトニックな関係を
保とうと必死になるが、そこに官能が忍び寄ることで互いは密接になる。
クーノーは自己嫌悪から、女とは純粋無垢であるかあるいは媚態にたけた
魅惑を持つ生き物であるが、君には双方がないと残酷な言葉を吐き、
マルゲリータを捨てる。マルゲリータはその言葉に打たれて自殺をとげる。

 幼なじみのジェインは理想を賛美し崇拝する女だった。彼女を性の
対象としか見ない夫との間に子供はなく、夫婦は不幸な結婚で結び
ついている。彼女の不幸を察したクーノーは精神的な愛の手を
さしのべようとジェインに接触する。別れを決意するころ、その思いは
しだいに肉体の愛へと変貌する。クーノーは肉欲に逆らいきれず、
自らの弱さから「ジェインが誘惑したのだ」と言い出す。それを聞いた
ジェインは辛さのあまり、子供を産み落として死んでいく。生まれた
子供はメールヘンと名づけられた。

 クーノーはメールヘンを引き取り、山村の農夫に預けて養育を任せる。
メールヘンは成長して周囲からは私生児とからわれ、学校での生活が
耐えられなくなる。クーノーがじきじきにメールヘンの教育係を
引き受けることになる。信仰と倫理の問題を解決できなかった
クーノーが娘の教育を引き受けることに養母やルードルフは不安を
持つが、その不安は的中した。クーノーはメールヘンに、「教義や
信仰にとらわれない宗教感情を持てる能力」という、危険な思考を
彼女に植え付ける。

 メールヘンに知識を与える唯一の人間はクーノーだった。そして
メールヘンは成長と共にクーノーに恋愛感情を抱きはじめる。
クーノーは、メールヘンの一七歳の誕生日に自分が父であることを
告白すると決意する。しかしそれに伴うメールヘンのショックを考え、
悩む。ある夜メールヘンは病床につく養母に、クーノーの妻に
なりたいと告白する。それを聞いて養母は恐ろしさのあまり死んで
しまう。入れ違いにクーノーが現れ、自分を「お父さんと呼んでくれ」
と口にする。その晩、メールヘンは自殺する。彼女の死後、
ルードルフは彼女に深い恋心を告白し、生の無意味を身をもって
知り、彼は死を願う。

 前半がクーノーの信仰の問題、後半が彼の倫理の問題という
二つのテーマを、ヒロインの死や近親相姦といったエキセントリックな
モチーフを通し悲劇として取り上げている。クーノー、ルードルフ、
ジェイン、メールヘンというそれぞれの登場人物に、ルー自身の
人格や彼女の交わった人間、小説の人格が投影されている。たとえば
クーノーの理想主義や神の探求はニーチェであり、教育者としての
側面はギロートだ。虚無主義者のルードルフはレーで、ジェインは
イプセン劇に登場する不幸な女たち、教義や信仰にとらわれない
宗教感情を持てる能力を植え付けられた悲劇のメールヘンは幼少
時代のルー、自由と平等とプラトニックな愛を説くマルゲリータは
そののちのルーの姿だ。

 ルーの処女作に目を通したニーチェは、「タウテンブルクでの会話を
随所に思わせる」と、その内容に早速反応を示している。ニーチェは
ベルリンの友人に手紙で、ルーの作品の感想を書いている。

 「レーと縁の切れぬ妹ザロメの半ぱ小説--同時にふざけた調子で
わたしの眼前に現れたこの半ぱ小説では、わたしはまったく違った
感じを受けました。それの形式的なものはすべて少女趣味で、
甘ったるく、またここで一人の老人が物語っているのだと考えて
もらいたいという僭越さにいたっては、滑稽というほかありません。
しかし、問題そのものには、彼女の真剣さと高尚さが含まれています。
そしてこの少女を引っぱり上げているものが、けっして永遠の
女性的なものではないとすれば、たぶん永遠の男性的なもので
あるでしょう。」

 一方、レーは『良心の起源』を方々の大学に送るものの、その詰めの
甘さと悲観的な内容で、すべて送り返されてきた。ニーチェからも
「なんと空虚で、退屈で、間違いだらけなんでしょう! 自分の
体験した事柄だけを喋るべき。」と酷評を受ける。

 ルーも彼の才能について触れている。ニーチェが書くものは学問的
価値を欠く誤りでさえ作品全体の価値を高める要素となるが、レーの
誤りは欠陥でしかないと、まことに辛辣な批評を下している。

 運命と相応する才能の女神は、レーの人生に向かって微笑みかけては
くれなかった。レーは次の人生に全身で投機する甲斐もなく、大学
教授の道が半ば閉ざされてしまった。

 レーは三五歳にして、努力不足か、才能不足か、あるいは運命の
問題か、自分の歩む道に誤りがあることを自覚した。あるとき急に、
哲学者の道を断念した。より科学的な人間探求を試みようと、医学の
道へと路線変更することを決心する。

(次回に続く)

 同じ月、ニーチェは激しい体調不良を訴えながら、ルーとレー、
そして家族との断絶でいままでにない苦しみを味わったが、以前に
増して自分に自由になれたと口にしはじめる。ひとつの仕事を
終えた達成感と手応えから思考に余裕ができてきたこと、そして
人生の歩むべき方向性の端緒を見出しつつもあったからだ。鍋で
ゆでられた蚕の繭から、絹糸のわずかばかりの発端を発見して
つまみ出し、それが壮麗な衣裳になる夢を妄想した瞬間だった。

 死ぬこと以外に道はないと考えていた数週間前とはまったく
気持ちが違う。

 『ツアラトゥストラ』の発刊が決まり、印刷は着々と進んだ。
書物による自身の生まれ変わりをニーチェは喜んだ。ニーチェは
すべてを水に流し、妹との再会に承諾した。五月、妹との和解を
前提に、ローマで面会を実現する。面会は成功を収めた。

 しかし、このときの和解は、平和が訪れるための和解ではなかった。
双方の和解のレベルに見解の相違があったからだ。この和解により
昨年の事件を清算して新しいスタート切ろうという希望を持った
ニーチェの一方で、エリーザベトは、兄との和解は自分の活動が
認められたこと、つまり反ルー活動およびルーへの復讐工作にも
兄が承認したものだと解釈した。以降しばらく時間をおき、再び、
エリーザベトの反ルーキャンペーンは高々と花火を打ち上げる。

 一度は死の淵に立ったニーチェは、いま一歩起きあがった。
危機的な状況を脱して生き伸びてきたのには理由があろう。彼は
前に進もうとした。

 全身に温かい血液が循環する自分の身体を認識した。生気を
取り戻しつつあったニーチェは、本格的な再起を願い、スイスの
ジルス・マリーアに移転する。

 七月、『ツアラトゥストラ』の第二部が完成した。
ツアラトゥストラの執筆とルー事件の後始末はパラレルに進行する。
ニーチェの事件の清算の矛先はレーに向けられていた。というのも
ニーチェは、一八八二年の夏のルー事件にレーが関与していたのだ
という文書を入手したからだ。発信人不明のこの怪文書は
エリーザベトの手からニーチェに渡されたもので、いままでの
ことからも、彼女の真偽を取り混ぜた巧みな偽文書である可能性は
十分に高い。

 発信人不明なのが疑わしさの第一の理由だが、もうひとつは、
エリーザベトが反ユダヤ主義者だったことがあげられる。
ワーグナーを中心とした反ユダヤ主義者陣営は、マルヴィーダや
エリーザベト、そしてのちにエリーザベトの夫となるフェルスター
博士にもおよんでおり、彼らの中での反レー色は日増しに
色濃くなっていた。一時はマルヴィーダから息子のように
可愛がられたレーだが、この時期すでに、レーは彼の全否定的な
思想とともに人間性が疑われており、レーはユダヤ人ゆえに除外
するべき人物だと、周囲から村八分にされていた。エリーザベトの
もたらした怪文書はレー排除のためにねつ造されたものと考えても
不自然ではない。

 これを受けてニーチェはレーに手紙を書く。
 「こんな忍び歩きのうそつきの陰険な連れを、何年もの間
自分の友人と認めていたことを思って、いまほど胸中に吐き気を
おぼえることはない。」

 「本当に、君が僕からなにを望んでいたのか、僕と一緒に
なにをしたかったのか、もうまったくわからない。ワーグナーが
かつて僕に君のことでこう警告したことがある。『あの男は
いつか君にいかがわしいことをするだろう。あの男はよからぬ
ことをたくらむね』とね。」

 「断固君に道徳上の仕事をさせはしない--つまり、それには、
レー博士! 純粋な手が、汚れなき指が必要なのだ。」

 手紙を一〇通近く書くが、「レーが自殺してしまうかもしれない」
との心配から、ニーチェはひとつも投函しないまま手元に保管した。
自殺の懸念とは、彼への軽蔑から発言しただけで(別途「レーとは
決闘になるかもしれない」とも発言している)、もともとレーに
手紙を送付する意図はなかった。ニーチェにおいては未投函の
手紙に限ってラジカルな発言が多い。ニーチェは手紙で相手を
徹底的にやっつけ、これを送付したつもりで内部のストレスを
発散し、カタルシスを図ろうとしていたのだろう。

 レーへの件は、レーの兄のゲオルクを通し、間接的に手紙で
訴える。
 「いまになって、わたしとわたしの妹にザロメ嬢が加えた
ひどい中傷は、ことごとく弟君に帰着することを知りました。
つまり、ルー嬢は弟君の代弁者に過ぎないということです」

 「なによりも、罪というこの言葉はザロメ嬢のことで、弟君が
破廉恥にもわたしをだましたことなのです。つまり彼はザロメ嬢の
ことを、この世俗の世界ではあまりに善良すぎる人、子供の
ころから認識の殉教者、完全無欠な無私の人、真理のために
人生の幸せや安楽をすべて犠牲にしてきた人のように、長々と
しゃべりました。--さあ、ゲオルクさん、この世の中に
こんなタイプの人間はめったに育たないのです。」

 「あるときは手紙でルーを自分の運命だとまで言いましたよ。
なんという悪趣味でしょう! あの、贋物の胸をした、
悪臭ぷんぷんで不潔な小娘が、運命だなんて!」

 この手紙を受け取ったゲオルクは激昂し、ニーチェを名誉毀損で
告訴すると脅してきた。これにニーチェも応報し、レーの兄と
ニーチェとの関係は悪化する。
  
 ルーへの復讐劇が再燃したことに憂慮したのはフランツ・
オーヴァーベクとペーター・ガストだった。さまざまな風説や
尾ひれのついた噂話をよそに、この二人は真実を見ようと、
親友ニーチェのために力を尽くした。この時代のニーチェを
生かしたのは事実彼ら二人であった。

 フランツ・オーヴァーベクは妻とともに、ニーチェに強く
説得した。妹の復讐工作にいっさい耳を傾けるなと。さまざまな
精神的危難を乗り越えてきたニーチェなら今回の危機もきっと
乗り越えられるだろう。オーヴァーベクは彼に対して強い信用を
抱いていた。身を隠したり沈黙を守ったり、しばしばニーチェは
自分の存在を隠した。しかしオーヴァーベクとその妻には別だった。
彼らには自分の中の率直な部分をつねにうち明けていた。

 八月、タウテンブルクから一年を経て、ニーチェはルーについて
ひとつの結論めいた見解を手にした。これをオーヴァーベク夫妻に
明かしている。

 「いぜんとして彼女は僕の目から見て、第一級の人物だ。彼女は
まことに気の毒だが、その意志の力、その精神の独自性から見て、
偉大な才能の持ち主ではあるが、彼女の現実の道徳性から判断すると、
むしろ、刑務所か精神病院行きでしょうね。その劣悪な性質があっても
なお、彼女がいないことが僕には淋しい。僕と彼女はたいへん違って
いて、それだけにその会話からは必ず有益なことが生まれてくる。
僕はこれほど偏見のない、これほどに賢い、僕独自の諸問題に心の
準備のできている人に会ったことがない。」

 いままでのエリーザベト的な見解は身を潜め、ニーチェは自分の
言葉でルーとのかかわりに取り組むようになった。そして、ニーチェの
体験が克服のプロセスに入ってきていることが次の文章から読みとれる。

 「レーやザロメ嬢に対して書かれた軽蔑的な言葉は、そのひとつ
ひとつが断腸の思いだ。僕は、敵愾心をおこすには適していないように
思われる(最近、妹は、兄さんは上機嫌にしていなくちゃいけない、
これはほんとうに「溌剌とした愉快な闘争」なのだから、なんて
書いてよこしている)。知るかぎりではいちばん強烈に撤退される
方策を講じてみた。つまり、自分の最高の、もっとも困難な創造力に
訴えてみたのだ。」

 そして、事件そのものを凌駕する出来事がニーチェの内部で
起こっていることをほのめかす。

 「去年の不幸は、僕を支配している目的や目標と比べてみた
ときだけ、非常に大きいものなのだ。」

 「計算してみれば、来年はまだ生きていく必要があるのだ。--
なお一五ヶ月は耐えられるよう僕を助けてもらいたい。」

 ニーチェは『ツアラトゥストラ第一部』を発刊して間もなく、
読者からの反応に確かな手応えを感じ、「ヴォルテール以来この
ようなキリスト教暗殺計画はなかった」と、かつての断定的興奮
口調が彼のもとによみがえってきた。

 ここにきて初めて、ニーチェは妹によるルーへの復讐工作の蒸し
返し計画にはめられていることに気づく。

 九月にニーチェはナウムブルクの自宅に帰って一〇月上旬まで
滞在するが、家族といざこざを起こし、再び家族との生活を見切って
イタリアに消えてしまう。その間に再び彼を待ち受けたのは、孤独に
よるストレスと度重なる発作を伴った病苦だった。

 友人の行き先を見失ったペーター・ガストや、音信がまったく
途絶えた実家のエリーザベトは、失跡したニーチェの捜索に乗り出す。

 一二月に突然、オーヴァーベク宅にニーチェから手紙が届いて
いた。開封するといまは南フランスにいるとある。

 「僕はもっともうらやまれてもよい人間の一人なのだ。」
 非常な上機嫌で、とてつもないひらめきの雷に打たれたような
躁状態だ。

 「僕はいまだ誰も知らない僕の「新大陸」を発見し、いまは、
一歩一歩、それを征服しなければならない。」

 事件に対しても冷静な告白をする。
 「あの不幸な事件の特徴は、僕が自分とまったく同じ課題を持った
人間を見つけたと思いこんだことだ。この軽率な思いこみさえ
なければ、孤独(誤認、軽蔑、などなどにまつわるすべて)の感情に
これほど苦しまなかっただろうし、過去と現在の行動に、これほど
苦しまないだろう。というのも、いまも昔も、僕は一人で発見の航海を
終わりまでやり遂げる覚悟があるからね。でもね、ひとたび、
一人ではないとの夢を見てしまうと、その危険はとてつもなく
大きかったよ。いまもって、一人では耐えられないときがある。」

 そしてニーチェは、いま一つの新大陸を征服した。

(次回に続く)

 ベルリンに来てまもなくのことだから、ルーの全方位的な男性関係の
下地はすでにバイロイトやライプツィッヒで形成されていた。
タウテンブルクから街に出てわずか数ヶ月で、ルーは新しい知己を得て、
新たな求婚を受け付けていたのだ。

 このときの模様をルーは手紙で、クリスマスツリーの横でエビング
ハウスと二人でグラスを傾けながら、ずっとレーとの一年の出来事を
思い出していた、早くベルリンに戻ってきてと、レーに伝えている。
ルーはさらに続ける。

 「わたしたちはいまではこの広い世間にしっかり根をおろし、
あらゆる世間体や障害に抗して、わたしたちの関係が、自分たち
自身にも、人々の間にも生活可能であることを実証しました。遠くから、
いやそれどころか親しい人たちからも、ときおり非難やこせこせした
意見が聞こえたりしましたけれども、わたしたちが生活している近辺と
その近隣の人々の間で、理解と優しさと暖かさに出会いましたわね。」

 ルーによる、一八八二年の事件に関する「非難やこせこせした
意見」に悩まされたという発言は、エリーザベトが耳にしたら、
怒りの炎に油を注ぐことになろう。また、南国で孤独と病苦に戦う
ニーチェがベルリンのルーを知ったらどんな思いをするだろうか。

 エリーザベトとの闘いにルーは鍛えられ、ルーの言動は見る見ると
大胆になってくる。周囲を省みないルーの態度に、さすがのマルヴィーダ・
フォン・マイゼンブークも怒りをあらわにし、「純粋な自意識ゆえに
世間の思惑をあまりにも考えていない。」と喝破する。

 ベルリンでルーは社会学者のフェルディナンド・テニエスからも
求婚を受ける。が、エビングハウスと同様、「精神的な結合」を楯に、
それでも迫られれば「レーの存在」を楯に(ごらんのようにわたしには
同棲している男がいるから、と)、双方の求婚をはねつけた。その
意味でもレーの存在はルーにとっては不可欠だった。ルーのたびたびの
懇願で、へそを曲げて帰郷してしまったレーは再びルーのところに
戻ってきた。

 一八八三年、年が明けても、ルーへ対するエリーザベトの情報戦は
終わることがなかった。むしろ意識して情報戦の展開を宣言する。
ある集まりでエリーザベトが、ワーグナー夫人の敵をワーグナー夫人の
賛美者に転向させたことがあり、「あなたは人の心を支配するおそろしい
力をお持ちだ」と人から賛辞されたという逸話が残されている。
かつては無意識に人の心を支配していたのだが、今後は意識して
他人に情報戦をしかけようというのだ。

 ニーチェからの音信がいっさい途絶え、エリーザベトは兄の居場所を
方々と探るが、どこからも手がかりは得られない。兄のことだから
きっとオーヴァーベク夫妻のところにいるのではないかとバーゼルに
問い合わせを入れる。しかしそこにもいない。

 エリーザベトがクララ・ゲルツァーの次に標的としたルー情報の
プロパガンダ先は、オーヴァーベク夫人だった。

 「わたしは筆舌につくし難いわたしの苦難を人様に見られないよう、
ひとりさびしくタウテンブルクにとどまりました。その苦痛は、争いが
原因ではなく、低俗で官能的なおそろしい汚れた人の支配下にあって、
あまりにも変わり果てたフリッツのためでした。」

 タウテンブルクでの昨年の苦痛を踏み台に話を展開する。エリーザベトの
常套句、「あなたにしか言っていないから口外しないでくれ」と
釘をさしながら、ルーへの攻撃を開始する。

 「彼女は兄の哲学の女性代弁者としてまったく不適格です。彼女は
あまりにも低俗な文化段階にいます。つまり、嘘、お芝居、中傷、怒り、
冷酷はこの彼女の低俗段階の標識のすべてです。」

 「彼女は病気のふりをしたり、詩を作ったり、嘘また嘘の連続で、
とうとう哀れなフリッツはあほうにまで堕ちてしまいました。彼女は、
自分の目的のために他人を食い物にする寄生虫です。」

 「彼女はこのゴシップに耳を傾ける意志のあるなしに頓着なく、
誰にも、ニーチェとレーが自分と一緒に研究にしたがっていて、両人は
自分の行こうとする所にどこにもついてくると語りました。」

 世間の噂はルーとニーチェに関することにとどまらなかった。
エリーザベトのルー攻撃そのものが、兄を横取りしようとするルーへの
嫉妬ではないかというスキャンダルにまで発展した。

 ルーへの嫉妬という噂話に、エリーザベトはほぞを噛む思いでいたのも
事実だった。これに対してエリーザベトは、かつてニーチェが恋をした
コージマ・ワーグナーとの話しを引き合いに出す。自分はいままで
コージマ・ワーグナーにすら嫉妬したことはない。むしろ彼女には尊敬を
持っていた。確かにコージマが不倫の恋からワーグナーの後妻の地位を
奪い取ったのは倫理的に許されたものではないが、それでも、お楽しみで
男女関係を遊ぶルーとはまったく次元が違う。それゆえルーには怒りを抱き、
嫉妬などは問題外と説明する。

 この闘いは兄の名誉のためにしているのだ。「フリッツは、あらゆる点で、
彼の偉大さを阻害する有害なこの人間に、わたしの全力をあげた闘争を
知って感謝するでしょう。」

 ひとつの目標に対してエネルギッシュに突進する彼女の集中力は
兄譲りだ。

 オーヴァーベク夫人へこのような手紙を書いたのにはいろいろな
意味がある。まずは兄が全幅の信頼を置いている友人の妻であると
いうことと、実際にルーと接触した人物であること。それにオーヴァーベク
夫人はエリーザベトの活動に対して不信感を抱いている。その不信感の
払拭も意図して手紙を書いた。

 この手紙が生んだ効果は、結論から言うと互いの不信感の増大だった。
オーヴァーベク夫人は騒ぐのをやめろとエリーザベトに忠告し、
エリーザベトは、オーヴァーベク夫人の目撃したルーは偽物のルーであり、
実はいま兄はルーと密会していてあなたはそれをかくまっているのでは
ないかと疑いの念をも示す。

 兄との音信不通が続いた数ヶ月後、エリーザベトは友人づてに兄の
生存を噂を耳にする。兄は一人、次の仕事に取りかかろうと新しい
生活に目を向けているのだという。この事件は一件落着したのだと
エリーザベトはほっと胸をなで下ろした。早速兄との再会を果たそうと
ローマでの面会を求めるが、ニーチェからにべもなく拒絶される。

『ツアラトゥストラ』
 もう僕は死んでしまった。ならば書物で生き返ろう。書物で永遠の
生命を手に入れるのだ。

 二月、ラパロでの逃亡生活で、ニーチェはピストル自殺を考えながら、
遺書のつもりで『ツアラトゥストラ』の第一部を書き始めた。

 「すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって
書いているものだけを、愛する。血でもって書け。そうすれば、
きみは、血が精神であることを経験するであろう」

 最古の宗教、拝火教の教祖の名を持った主人公ツアラトゥストラの、
人生遍歴を通して得た、彼の体験と成長の物語だ。ツアラトゥストラは
三十で隠遁生活に終わりを告げ、社会に足を踏み入れる。彼がそこで
見たものは文化を失い動物のように「蓄群」として群れる人間の没落と、
そして万物は永遠に回帰する永劫回帰の思想だった。人間の没落は倫理の
終焉でもあった。人間を没落の世界に陥れる倫理とはキリスト教だった。
人間が没落を永遠に繰り返すのは人間であるゆえだ。ならば人間は人間を
超越すべきだ。人間が人間を超越するには、人間が創造した「神」を
殺害することだ。ニーチェは神の殺害により、人間が自分を乗り越えて
救済されることを、『ツアラトゥストラ』で強く主張する。

 彼は書き続けた。ストレスと極度の緊張で視力は日増しに低下し、
ほとんど手探りの状態で机に顔面を押しつけ、激しくペンを走らせた。

 書物にひたすら全身をぶつけ、死にもの狂いで書く。裏切りと疑惑に
満ちた自分の過去からの訣別を図った。心身の疲弊の中、精神はなおも
活発に働く。

 『人間的な、あまりにも人間的な』や『喜ばしき知恵』のような
アフォリズムの形式を取らない、文芸的スタイルによる哲学書の新しい
試みに、ニーチェは強い手応えを感じた。

 極度の緊張と集中で、『ツアラトゥストラ』の第一部を一〇日間
という恐るべき早さで書き上げる。

 彼の生命に光が射し込みつつあったこの時期、また新たな衝撃が彼の
背中を打った。ワーグナーの死だ。ライプツィッヒでの劇的な出会い、
父への尊敬にも似た超えることのできない畏れ、哲学者としての共感と
芸術家としての憎しみ、トリープシェンでの交流、バイロイトでの
屈辱......。彼への思いは愛憎に満ちていた。

 「僕にあったすべてがなにもかも引きちぎられた!」
 ニーチェの率直な気持ちがこれだった。

 ローマで、ルーは養女のオルガ以来最も愛情を注いだ娘だという
マルヴィーダは、エリーザベトからの攻撃をかわしながらベルリンで
生活するルーの素行をつねに気にしていた。

 三月、マルヴィーダは、ベルリンでルーと面会した知人から報告を
受け取る。短い面会から、ルーの多面性が鋭く観察された。

 「彼女は女性としてはあまりに変わった娘さんなので、簡単には
その本質を見抜けません。彼女の内からわたしに向かって立ち現れて
きたものは、いままでわたしが女性というある物差しで見るのとは
まったく異質のものでした。」

 「ルー嬢は男性のように世界を理解する。そのことがわたしに非常に
目につきました。」

 「女性が使う手段をすべて放棄して、反対に、男性が人生の戦いを
受けて立つときの武器をもっぱら使うのです。あらゆるものについての
手厳しい判断、世間でよくある、有無を言わせない辛辣な評価、
女性が好んでする許容範囲のようなものは、影も形もありません。一語
一句が明確的確に表現されています。」

 「音楽、芸術、文学がたしかに議論されますが、独特な尺度で
はかられます。つまり、純粋な美の喜びではなく、形式にたいする喜び、
内容の理解、心と心情での所与の詩的享受なのです。それどころか、
それらについての冷徹な、残念なことに、あまりに過剰な否定的
分析的哲学的思考なのです。」

 すべてに対して否定的な判断を下すルーにこの報告者は多少の
嫌気がさすものの、冷静な知性と優しさ、人なつっこさを備えた
彼女に対して将来の可能性を示唆する。

 「彼女が追求している一面性にたいしては、彼女の内なる目覚めて
いる女性が力を発揮して、遅かれ早かれ、その反動が生ずるものと
思っています。そうなりますと、この才能に恵まれた娘から、
きわめて優れたものが生まれると思います。」

(次回に続く)