●この本が面白い! 『純粋理性批判』

純粋理性批判.jpg『純粋理性批判』を3ヶ月かけて読み終えた。カントという巨大な山脈に接近することができたこの期間は有意義だった。カント理論は難解だが噛み応えあり。正直、1割も理解できていないと思う。しかし彼の情熱や人間愛を強く感じられた。存在とはすべて現象であるという、「世界の現象」にここまで迫った人物は、カントをおいてほかにはいなかったはず。カントはなぜこれほどまでに人類の未来に対して強烈な危機感を持ったのだろうか。

永遠平和のために.jpg

カント3作目、読みました。
『プロレゴーメナ』『人倫の形而上学の基礎づけ』の2作(もちろん、『純粋理性批判』などの批判3部作も含めて)が、いわばカント思想の基礎をなしている。
『永遠平和のために』だけを読んでも、なかなかその価値がわかりづらいと思う。
「このおじさんはなにを言っているのだろう」という風に、一般的な平和論と捉えられがちなはず。

カントが一貫して主張し、人倫に要求するものは、「理性」と「幸福」の追求である。
そのためには「自律」をもって「自分の行動原理(格率)を普遍的法則にまで高めよ」、というのだ。
この命題が、カントの平和論のベースをなす。

これについては、『プロレゴーメナ』『人倫の形而上学の基礎づけ』のエントリーで書いたとおり。
ここでは、『永遠平和のために』の要点や、気になった点だけを抜き出してみる。

まずは戦争に関して。
歴史的に、「戦争をなにか人間性を高貴にするものとして賛美する。」という傾向があり、そこに、人間が戦争を起こす正当性の理論のベースにあるとしている。

そして、「宗教と言語による民族の分離」はえてして戦争の原因ともなりうるが、こうした分離には意味があり、決してネガティブな要因だけではないという。すなわち、民族は分離しているからこそ、互いが競い、発展する動機になる、という。

「互いの利己心を通じて諸民族を結合する。」

そしてカントのもう一つの主張は、「商業精神は戦争とは両立できない」という点。
この商業精神こそが、あらゆる民族を支配するようになるという。
商業が支配する、現代社会を予言した言葉である。
しかし思うに、「商業精神は戦争とは両立できない」というカントの予言は外れてしまった。
以下は私の意見。

現代の商人は、戦争と両立できる商業精神を編み出した。
それが、武器商人の精神だ。
戦争をすればするほど、儲かる。
もしくは、戦争の脅威を人々に植え付ければ植え付けるほど、武器は売れる。
隣国が軍備を高めているという情報一つでイージス艦は売れるし、乱射事件が起これば拳銃火器は売れまくる。
「軍備の拡大は論外」とカントは言うが、資本主義経済はそれを逆手に取り、商業精神と戦争を両立させてしまった。
消費なしに資本主義経済は成立しない。
その行き着くところが、最大の消費である戦争だ。
中東問題もリーマンショックもしかりで、ある意味資本主義経済も、21世紀において、限界に達した。
資本家や政治家といった、権力を持ったどれだけの数の人間が、次のカントの言葉を現実として受け止めているのだろうか。

「汝の格率が普遍的法則になることを、汝が意志することができるように行為せよ。」
自分の行動原則に普遍性を持たせよ、ということだ。
この言葉を額面通りに受け取れば、武器を消費させ、武器を売買することで利潤の最大化を図るという発想自体、まったく成立しない。
人間は権力を持てば持つほど、このカントの言葉を冷静に理解するべきだ。
彼のこの言葉を単なる理想と読むか、現実と読むか。
カントの言葉の読み方次第で、世界はまったく変わるはずだ。

これはいわば、『プロレゴーメナ』の実装編である。
訳者による前書きで「『人倫の形而上学の基礎づけ』を先に読んだ方がよい」とされている通り、その読み方をお勧めする。
『人倫の形而上学の基礎づけ』は豊富な具体例が添えられ、一つの事柄がいろいろな方面から語られていて、わかりやすい。
難解といわれるカントの理論をより身近に感じさせてくれる作品だ。
本書の特徴は、ア・プリオリの法則を人間の本性に適用したところにある。
カント曰く、すべての人間はア・プリオリに、幸福を追求する欲求を持っている、という。
この定義を起点にカントの倫理学が展開される。
ポイントは2点。
一点は、人間を手段にしないこと。仮に人間を手段にしてもよいという論法が成り立てば、目的のためならば人に暴力をふるったり、人を殺すことも許されてしまう。
そしてもう一点は、自分の行動原則(カントは「格率」という言葉を使っている)を自然にかなった普遍的法則と合致させよ、ということ。これはかなり厳しい指摘だ。
たとえば、人は守れない約束をしてはならない。なぜならば、それは人が幸福を追求するという普遍的自然法則に適合しないから。守れない約束をするという行為は、その時点ではその人個人の利益(一時的な信用の獲得や快楽)になろう。しかしこれが社会的に一般化することで、不正や不実がまかり通り、社会自体が成立しなくなる。ゆえに、これは普遍的自然法則に適合しない。

そこで登場するキーワードが、「自律」である。
自発的に、自分の意志で行動することにのみ、理性が伴う。
他人からの命令による行動を「他律」と呼び、そこに理性は伴わない。
言い換えれば他律とは、自分が手段とされ、他人を目標とすることだ。
カントの言葉を引いてみる。

「人間は物件ではなく、したがって単に手段としてのみ用いられるものではなく、あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない。ゆえに私は、私という人間を勝手に扱って不具にしたり病気にしたり殺したりすることはできないのである。」

理性は自分の中にしかないものだ。
決して他人から命令されるものではない。
再びカントの言葉。

「自由の概念は意志の自律の説明のための鍵である。」

結局のところカントのいう形而上学は、自由の概念が根本にある。
自由のために自律せよ、と、カントは言う。
自律があってこそ自由があり、自由があってこそ倫理がある。
そしてそこには、人間の恣意や心が介在しない善なる意志がある。

のちカントは、カント理論の抽象度を高めたさらなる実装編『永遠平和のために』を書き上げている。

カントの卓越したところは、学問を理論にとどめず、「実用」にした点にある。
彼によると、学問とは事物を人にわかりやすく整理し、人に伝えるための技術であると言う。そしてその本質に「実践」がある。

反論を承知で言ってしまえば、カントを読んでしまうと、ニーチェもハイデッガーも、カントの赤ちゃんのように思えてならない。

久しぶりに、偉大な巨人の作品に触れさせていただいた印象だった。

カントさん、ありがとう。

プロレゴ-メナ.jpg強烈に素晴らしい書物と巡り会った。

『プロレゴーメナ』は、カントが自ら語っているが、代表作『純粋理性批判』の手引き書のようなものである。
200ページちょっとで読め、かつ、内容密度が大変に濃く、読み応えがある。

形而上学とは、自然を超越したもの、自然の上にあるメタなものを追求する学問である。
この形而上学を「非経験(ア・プリオリ)の世界」と「経験の世界」という2つの世界に分離して解釈したのが、カントの最大の発見であり、発想の転換である。
これが俗に言う、カントの「純粋理性」である。
ア・プリオリの世界とは端的に言うと、「時間」と「空間」の世界。
時間と空間は、人間が個人的な学習や経験を経ることなく知り得るものである。
コップが高いところから落ちれば割れるし、時間が経てば草花は成長し枯れる。
アプリオリな認識とは、こうした共通の認識である。

このように、世界には個人的な学習や経験を超越した(ア・プリオリな)事物が存在する。
人間の経験と共に、その経験を超越したア・プリオリなものを、形而上学の範疇に入れ、形而上学を再構築し、理解しましょう、というのがカント理論の骨格。
カント以前は、形而上学とは個人的な経験や空想が唯一の判断基準で、ともすると形而上学は学問を離れオカルト的な領域にまで手足を伸ばしていた。
カントによると、「『純粋理性批判』が普通の学校形而上学に対する関係は、科学が錬金術に対する関係、あるいは天文学が予言をこととする占星術に対する関係とまさしく同じである。」という。

カントの純粋理性に基づいた形而上学の枠組みは、以下の構造になっている。

===
経験の伴わない(アプリオリな)純粋直観の世界
 ↓
感覚(感官)の世界
 ↓
経験的直観の世界
 ↓
現実的印象の世界
 ↓
経験の世界
 ↓
悟性(理解)の世界
 ↓
統合された経験の世界
 ↓
真理
===

すべての出発点を、感覚や感性を超越したア・プリオリな純粋直観の世界とすることで、人間の恣意や性癖、空想といった、理性を離れた世界のみで事物を把握するという事態が回避された。これが、カント哲学のもたらした脱構築であり、最大のパラダイムシフトである。

ヘーゲルやフッサールなどの、カント以降の大哲学者はほぼ全員影響を受けているはず。
個人的には、身体(時間)と経験(空間)という認識の方法は、フロイトがかなり影響を受けていると感じ、世界人類を視野に入れたコスモポリタンな思想は、マルクスが影響を受けていることを強く感じる。

上記の、『プロレゴーメナ』でカントは純粋理性の世界を教育的に解説した。
そして次に、『人倫の形而上学の基礎づけ』(中公新書に併載されている)で、カント理論をいかに現実社会に適用するのかを、具体例を交えて語っている。

カントの入門書として、ぜひ一読をお勧めする。

悪徳の栄え.jpg
 正編が黒、続編が赤という装幀が素晴らしい。

 マルキ・ド・サドの代表作。
 怪女ジュリエットの悪徳三昧の半生が描かれるアンチユートピア小説。
 正編では大臣に囲われる娼婦としてジュリエットが登場。
 大臣の権力の庇護下で悪徳の限りをつくす。
 大臣も、慈善や施設の破壊によるフランスの人口削減を企てる、私利私欲にとりつかれた極悪人。
 続編はイタリアとロシア、スウェーデンが舞台となり、各国遍歴悪行旅行をつくす。
 続編はおなじみの発禁となった巻。
 「露骨な性描写」が発禁の原因であるとは当時の政府の見解だが、実際にはそういったレベルではなかったのではないかと思われる。
 政治レベルの嫌悪感を政府に抱かせたのではないか。
 つまり続編はエカテリーナやローマ法王といった各国の権力者が登場し、皆さん私利私欲にとりつかれた変態である。
 「権力とは悪そのもの。権力を持つ人間は個人的欲求充足と個人的な権力の保持にしか興味がない。かつ変態」というのが、サドの権力者に対する見解。
 彼らは悪徳に満ちた人物として描き出されている。

 悪書とはまさにこのこと。
 これ以上の悪書は他にあるのだろうか。
 あったら教えてもらいたい。
 人間の発想や言動は先天的なものに加え、その環境が影響を及ぼすというが、サドの思想と作風こそまさに、革命の時代のフランスが生んだあだ花である。

 休日の昼下がり、読み終えて、ふと近所の公園に行った。
 親子はキャッチボールを楽しみ、恋人同士は弁当を食べ、車いすに乗った白髪の老人はそれを楽しそうに眺めている。
 悪徳とはなんだろう、美徳とはなんだろう、正義とはなんだろう、革命とはなんだろう、戦争とはなんだろう。
 サドの世界観と目の前に見えた平和な世界との落差にほっとしつつ、かつ、考えさせられた次第。
 澁澤龍彦の歴史的名訳。


芸能野史.jpg私が密かに私淑するのが、小沢昭一先生である。

俳優という職業を持ったご自身が自らを「芸能人」として高いところから俯瞰してみたら、大道芸人・放浪芸人が視界に入ってきて、その研究に生涯を費やしてしまった、といったのが作者のスタンス。

作者が学生時代に観た「女相撲」を山形まで訪ね、当時の「力士」と再会するくだりは、太宰治が『津軽』で養母と再会したときの感動に迫るものを感じる。

作者の深い愛と、言葉の端端から感じさせる高いインテリジェンスで迫った、『日本の放浪芸』の思想の原点である。
フィールドワークがすさまじい。

この本は、まさに名作。

eden.jpg ポーランド人の複雑なメンタリティが沈潜したSF作品。

 1959年の作品であるというのに、すでに放射能汚染にまで言及されている。

 さすがコペルニクスとキュリー夫人を排出した科学の国ポーランド。

 キュリー夫人にいたっては被爆して死んでいるぐらいだから、放射能とポーランドのゆかりは深い。この国はチェルノブイリ原発事故の被害の大きかったし。

 惑星エデンの土地がポーランドだとしたら、そこに住む異星人はポーランド人であったりナチスであったりソ連人であったりで、また惑星そのものは支配者と連携した体制そのものであって、エデンに不時着した地球人は文化人やモラリストというキャラクターに置換できる。

 レムは当時のソ連支配下にあったポーランドにおいて、SFという表現スタイルを通して作品を構築し、作品を通してポーランドの苦悩を社会に示した作品として読めた。

 『エデン』の後に、レムは『ソラリスの陽のもとに』(1961年)を書くのだが、『エデン』は『ソラリス』ほど哲学的な美意識が徹底した作品ではなく、死と戦争のイメージが漂う薄暗い作品だ。

 1959年といえばワイダ監督の『地下水道』(1956年)や『灰とダイヤモンド』(1957年)がリリースされたほんの少し後で、不安や裏切り、抵抗といった、戦争で徹底的にやられたポーランド人らの精神の傷が深く残った時代だった。

 それにしてもポーランド人の尊敬すべきは、戦争とナチスやソ連による支配で、精神や物体がとことんやられてまでも、文芸や映画といった「作品」を作り続けたところにある。70年代に「連帯」が結成されたのもポーランドだし。

 表現統制が敷かれていた当時の共産主義体制の中で、手を変え品を変え表現し続けたところが、執念というか、あまりにも立派だ。

 レムの作品を通して、ポーランド人の卓越したクリエイティビティを感じた次第だ。

ちょっと前ですが、平田オリザさんがpepperのプロジェクトにかかわれた件を東京藝術大学に取材し、記事にしました。

志賀直哉にまつわる古風な温泉にpepperとは、なかなか風流なものです。

pepperプロジェクトの背景やその未来まで、以下2本の記事にまとめました。

湯煙の町にロボットがやってきた!(1)~城崎温泉pepperプロジェクト~

湯煙の町にロボットがやってきた!(2)~城崎温泉pepperプロジェクト~

東京藝術大学の力石さんや豊岡市の職員の方々、アゴラ企画の太田さんなど、さまざまな方から情報をいただきました。
8月27日(木)にパシフィコ横浜で開催された「CEDEC 2015」でのイベントの取材記事が掲載されました。


SBクリエイティブ、技術評論社、秀和システム、翔泳社、ちくま書房、ボーンデジタルの6社から編集者が登壇しました。
出版のマネタイズから本作りにまつわるさまざまな話まで、60分間、あっという間に過ぎました。会場も盛況でした。
編集者がこうした場に出て、語ることには、意義があると肌で感じました。
またこうした機会が持てたらよいです。

参加していただいた方々に、心から感謝します!
ログやSNS、電子書籍など、書くことのできる場が増加し、同時に、「人に読ませる文章を書きたい」という人が年々増えています。その一方で、「どうすればそれを実現できるか」というノウハウがまだ行き渡っていません。
セミナー「本を書いて世の中に出よう!」では、「人に読ませる文章を書きたい」のゴールを「商業出版」に据え、本はどうやって作られるのかからはじまり、どうしたら本を書き、世の中に出すことができるのか。そしてどうしたら、本と共に書き手が世の中に出ていけるのかという、その方法を、以下の3部構成でお話ししました。

・第1部 本はどうやってできるか? ~企画から印刷、製本まで~
・第2部 商業出版の舞台裏 ~本を書き、世に出すには?~
・第3部 本は、人と社会を進化させる ~書いた本が世の中に出ていく~

本を書くことは、ブログやSNSで文章を発信することと比べて作業工程がはるかに多く、また、全体にかかる手間も非常に多いです。逆から言えば、ブログやSNSなど電子メディアの登場によって、「書く」に対するハードルが極端に下がった、ともいえます。
また、「書く」に対するハードルが極端に下がった時代だからこそ、ブログやSNSなどから一歩踏み出て、商業出版物としての本を書くことは、書き手と読み手にとっての価値が相対的に高くなってきている、ともえいます。そうした本の価値とともに、ネットや全国の書店を通した流通網から、書き手は自己ブランドを発信でき、読み手はプロの制作者による編集や校正、レイアウト、デザインの入った質の高いコンテンツを手にできるのです。

手軽さと速効性の意味ではブログやSNSなどの電子メディアに勝るものはありません。一方で、情報の信頼性と深みにおいては、商業出版物である「本」の優位性は圧倒的です。
その意味で私は、「書きたい」の意欲が高い人には、商業出版をお勧めしています。

商業出版は、書き手の「書きたい」の欲求と、読者の「読みたい」の欲求の交差により、はじめて成立します。その双方の交点を作るのが、編集者です。そうしたきっかけを編集者として世の中に与えることができたらという思いで、私はこのセミナーを企画、実施しました。

前置きが長くなりましたが、「書く」のスキルを上げ、「書く」をより掘り下げたい人に、このセミナーの録画をぜひご覧いただきたいです。
そして一人でも多くの書き手に商業出版の世界へと仲間入りしていただき、力のあるコンテンツを世に投げかけていただくことを、願ってやみません。
セミナーの録画は以下から閲覧できます。

・はじめに http://youtu.be/bkoygdVtSFQ

ご閲覧いただき、その意見や感想などをいただけたら光栄です。