ちょっと前ですが、平田オリザさんがpepperのプロジェクトにかかわれた件を東京藝術大学に取材し、記事にしました。

志賀直哉にまつわる古風な温泉にpepperとは、なかなか風流なものです。

pepperプロジェクトの背景やその未来まで、以下2本の記事にまとめました。

湯煙の町にロボットがやってきた!(1)~城崎温泉pepperプロジェクト~

湯煙の町にロボットがやってきた!(2)~城崎温泉pepperプロジェクト~

東京藝術大学の力石さんや豊岡市の職員の方々、アゴラ企画の太田さんなど、さまざまな方から情報をいただきました。
8月27日(木)にパシフィコ横浜で開催された「CEDEC 2015」でのイベントの取材記事が掲載されました。


SBクリエイティブ、技術評論社、秀和システム、翔泳社、ちくま書房、ボーンデジタルの6社から編集者が登壇しました。
出版のマネタイズから本作りにまつわるさまざまな話まで、60分間、あっという間に過ぎました。会場も盛況でした。
編集者がこうした場に出て、語ることには、意義があると肌で感じました。
またこうした機会が持てたらよいです。

参加していただいた方々に、心から感謝します!
ログやSNS、電子書籍など、書くことのできる場が増加し、同時に、「人に読ませる文章を書きたい」という人が年々増えています。その一方で、「どうすればそれを実現できるか」というノウハウがまだ行き渡っていません。
セミナー「本を書いて世の中に出よう!」では、「人に読ませる文章を書きたい」のゴールを「商業出版」に据え、本はどうやって作られるのかからはじまり、どうしたら本を書き、世の中に出すことができるのか。そしてどうしたら、本と共に書き手が世の中に出ていけるのかという、その方法を、以下の3部構成でお話ししました。

・第1部 本はどうやってできるか? ~企画から印刷、製本まで~
・第2部 商業出版の舞台裏 ~本を書き、世に出すには?~
・第3部 本は、人と社会を進化させる ~書いた本が世の中に出ていく~

本を書くことは、ブログやSNSで文章を発信することと比べて作業工程がはるかに多く、また、全体にかかる手間も非常に多いです。逆から言えば、ブログやSNSなど電子メディアの登場によって、「書く」に対するハードルが極端に下がった、ともいえます。
また、「書く」に対するハードルが極端に下がった時代だからこそ、ブログやSNSなどから一歩踏み出て、商業出版物としての本を書くことは、書き手と読み手にとっての価値が相対的に高くなってきている、ともえいます。そうした本の価値とともに、ネットや全国の書店を通した流通網から、書き手は自己ブランドを発信でき、読み手はプロの制作者による編集や校正、レイアウト、デザインの入った質の高いコンテンツを手にできるのです。

手軽さと速効性の意味ではブログやSNSなどの電子メディアに勝るものはありません。一方で、情報の信頼性と深みにおいては、商業出版物である「本」の優位性は圧倒的です。
その意味で私は、「書きたい」の意欲が高い人には、商業出版をお勧めしています。

商業出版は、書き手の「書きたい」の欲求と、読者の「読みたい」の欲求の交差により、はじめて成立します。その双方の交点を作るのが、編集者です。そうしたきっかけを編集者として世の中に与えることができたらという思いで、私はこのセミナーを企画、実施しました。

前置きが長くなりましたが、「書く」のスキルを上げ、「書く」をより掘り下げたい人に、このセミナーの録画をぜひご覧いただきたいです。
そして一人でも多くの書き手に商業出版の世界へと仲間入りしていただき、力のあるコンテンツを世に投げかけていただくことを、願ってやみません。
セミナーの録画は以下から閲覧できます。

・はじめに http://youtu.be/bkoygdVtSFQ

ご閲覧いただき、その意見や感想などをいただけたら光栄です。

●「哲学カフェ」に行ってきました

いささか旧聞にはなるが、2014年11月28日(金)、青木達郎さん、早川さやかさん主催の「哲学カフェ」に参加してきた。
ファシリテーターは哲学者の寺田俊郎さん。
http://ameblo.jp/studiopocket/entry-11950918555.html

お題は「文明は発展すべきか?」。テーマがあまりにも巨大。
ちょうどこの時期、幕末明治維新を生きた福沢諭吉さんの著作を読んでおり、そんなときに文明について考えさせられ、気づきを得たので、ここに記録しておく。

まず、文明とはなにか、である。
「文明」で連想される言葉として、「文明開化」や「文明の利器」が思い浮かぶ。これらは「古いものに対する新しさ」という意味がある。また、外への広がりというイメージも含まれる。同時に、文明外の古いものに対する否定の意味もある。外への広がりと古いものの否定は、ある段階を超えると、他民族や他国家への侵略となる。これは、文明の悪い面である。文明のよい面はもちろん、科学が発展して生活の不自由や生命の危機が減らされることだ。
「文明とはなんだろう」の問いに、それは科学ではないか、経済ではないか、アートではないか、という意見が出た。人間は本来、自分は何者であるのかという疑問と、なにかしらを生みたいという欲求を持つ生き物だ。なにかしらを生みたいという欲求はアートを生み、人間が文字を手に入れることで疑問の探求は科学を生み、文字はアートを高度化させた。さらに人間が火を手に入れたことで、文字と火は融合し、科学が急速に発展した。

有史以来、人間は自分らが幸せになるように、文明を発展させ続けてきた。「文明は発展するべきか?」という問いへの答えとして、「文明はすでに発展している」し「文明はそもそも発展するもの」である。
発展とは本来よい言葉なのだが、「文明が悪く発展」している可能性もある。たとえば資本主義経済の危機による貧富の格差や世界各国での戦争、医療への過信による治療や判断のミス、原発事故、思いやりや優しさという人間本来が持つべき心の欠如。どれもこれも、文明が悪く発展した結果といえる。しかし言い換えれば、科学過信であり、人間の感受性の欠如でもある。つまり文明の発展とは人間の豊かな未来を求めて促進され続けるものだが、一方で侵略や破壊という人間を貧困にさせる要素も兼ね備えている。だからこそ「文明は"よく"発展するべき」である。

文明の二面性とはこんにちはじまったものではなく、何千年も前にソクラテスが言った、「無知の知」にはじまる。「オレはなんでも知っている」という思考は一種の科学万能主義であり、この考え方はイギリス産業革命を境に一気に社会性を帯びてきた。ワットは蒸気機関を発明し、産業革命の基盤を築きあげ、人間は自分の外部に「筋肉の延長」を作ることに成功した。これにより人間の持つ労働力の限りない拡張がはじまった。そして原子力の発見により筋肉の延長が最大化されたところで、各地で原発事故が起こった。筋肉の延長としての科学が、ワットの蒸気機関にはじまって原発の蒸気機関に終わるというのは、なにか皮肉めいたものがある。これで科学の発展が停止するということはない。しかし、明らかに、人間の科学に対する態度は変わらざるをえない。

そしてもう一つの科学的な革命は、第二次世界大戦後にはじまった「情報革命」である。軍事戦略に利用されてきたコンピュータの技術が民間産業に応用されるようになり、そして1990年代のパソコンブームとインターネットの普及により、第二次世界大戦から50年足らずの年月で、人間を取り巻く情報の世界が一気に塗り変わってしまった。いまや数万円で手に入るノートパソコンが、少し前のスーパーコンピュータの性能を持つ。しかも、おのおのがネットワークで接続されている。一台一台のパソコンが脳細胞だとすれば、ネットワークは大脳である。ここではっきりと言えることは、現時点で人間は、自分の外部に「頭脳の延長」を作ることに成功し、人間の持つ「考える」という行為の限りない拡張に成功しつつある、という点。

文明とは、人間にとってよく発展するべきである。その意味で、誰もが予測しなかった福島第二原発での原発事故は、科学過信と人間の感受性の欠如とともに、文明が悪く発展した結果である。事故とはいうが、人間や国土にとって取り返しのつかない事態を引き起こした。もはやこれは事故というレベルではない。他国を巻き込んだ地球規模の惨事だ。

いま最も気になるのは、この、自分の外部に作った「筋肉の延長」が、すべてはコントロール可能という科学過信と人間の感受性の欠如により取り返しのつかない事態を巻き起こしたことと同様、自分の外部の「頭脳の延長」も、取り返しのつかないことを巻き起こすのではないかという危機である。

パソコンやスマートフォンがネットワークで常時連結されることで、人間どうしがあたかも思いやり合いながらつながっているという感情的錯覚にとらわれる。検索エンジンから取り出した文章は、あたかも自分が書いた美しい文章や思想であるという思考的錯覚にとらわれる。パソコンやスマートフォン、検索エンジンは生活に欠かせないすばらしい道具だ。しかし、科学過信と人間の感受性の欠如により、上記のような錯覚は起こりうる。そしてこの状況を放置すると、錯覚は「知覚」にすり替わってしまう。知覚とは本来人間が「自由」に持っているものだ。しかしもはや、錯覚が起こることで、人間は「頭脳の延長」という人間が作り上げた道具に支配されることになる。これでは本末転倒である。本末転倒という意味で、原発事故とまったく同じだ。

文明の急速度な発展が止まることのないいまの時代、情報を通した感情的錯覚や思考的錯覚に対する、各人の態度が厳しく問われる。それはいったいどんな態度か。2つある。一つは、人間の言葉や表情、身体表現を通した生のコミュニケーションを甘く見ないこと。生のコミュニケーションの持つ情報密度は、計り知れなく高い。そしてもう一つは、その言葉はその人の身体から発したものなのか、あるいは検索エンジンから取り出されたものなのかを判断する感受性を磨くこと。これらのためには、共に、人の心を受容する感受性を磨くこと。

人にはそれが必ずできる。

レベルは異なるが、情報という意味では、1970年代のテレビがこれに近い。テレビばかり見ていると子どもの学力と判断力が低下するといわれ、一日に見る時間を制限したり、録画で選択して見るという、人とテレビというメディアとのつきあい方が磨かれてきた。また、テレビの閃光を目にして倒れてしまう子どもも出てきて、表現に関するモラルもメディア側には芽生えてきた。

「頭脳の延長」を実現したいまの社会でも、科学と折り合いをつけながら人間は進化できると信じている。

この辺については、今年3月に来日したノーム・チョムスキー教授が語った文明論に多くの答が含まれている。興味のある方は参考にしていただきたい。

http://blog.sbcr.jp/taiwa/2014/11/post-31.html

堅苦しい文章が長々と続いてしまったが、これはあくまでも三津田個人の見解で、この集まりからインスパイアを得たことだけは間違いない。つまり、得る印象は各人各様。そして、自由。「哲学カフェ」は、とてもラフな形で創造性を拓く楽しい集まり。

このような集まりが、これからも日本各地で自然発生的に増えてくることは間違いない。
コミュニティ社会とはこのこと。
3年後の2018年には、もっともっと加速して、世の中がコミュニティ社会化しているだろう。
どんな社会になっているのだろうか。この目でそれを見ることが、非常に楽しみだ。
2014年11月某日、北海道の余市に行ってきた。
余市はニッカウヰスキー創業者竹鶴政孝を描いたNHKドラマ『マッサン』のロケ地ということで駅前にある工場は見学者でたくさんだったが、私が体験したかったのは文豪幸田露伴の足跡だった。

◎観光客で賑わうニッカウヰスキー北海道工場・余市蒸留所
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露伴は文筆業に移る前の2年間だけ会社勤めをしており、その勤務地が余市だった。小樽からディーゼルカーで西に30分ほど行くと余市はある。
この「よいち」は、東京人は平家物語の那須与一のこともあってか、「よ」にアクセントを置いて発音してしまうが、正しくは「ち」にアクセントを置く。
駅から降りて観光案内所に行くと、係の女性が露伴の石碑がある場所の地図をくれた。「露伴がこの街で働いていたようですが、職場の建物など跡地はないのでしょうか?」と聞くと、「さぁ、わかりませんねえ」と笑顔で返答。そのまま地図を持って石碑のある西の海岸に向かい、途中の観光案内所でも尋ねる。文学青年風の丸めがねをかけた若者が出てきたので尋ねると、石碑の場所はわかるが露伴の働いていた場所まではわからない、という。100年以上前の話だから、さすがに情報は風化しているのだろう。そう思いながら、古そうな建物を探した。そこに老人がいれば、もしかしたらなにか知っているかもしれない。築40年以上に見える床屋があったので、そこで尋ねた。70代のおじさんが出てきたが、「ロハンって誰? 明治の小説家、知りません」と、ここでも同様の返答。地元での知名度は非常に低い。もうこうなったら総当たりと、さらに西に向かいお寺を訪ねる。お寺なら昔のことを知った人はいるだろうと。しかし不在。お寺の入り口に背中の曲がったおばあさんがいたので聞いてみたが、お耳が遠いのかそもそも知らないのか、ロハンのロの字すらまったくわからない様子。あまりの知名度の低さに、露伴って、余市で嫌われることでもしたのかなぁ、とさえ思った。

◎余市の西にそびえるシリパ岬。先端が盛り上がった独特の形
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余市駅から海に出て西に歩くこと数キロ、海岸の向こうのシリパ岬を背に露伴の記念碑が堂々と建っていた。石碑のとなりの看板を読むとこうある。「句碑は、露伴が勤務した余市電信分局近くの北海道立中央水産試験場前庭に、余市郷土研究会が建立」と。なんだ、ここか。それにしても地元の住民は、石碑の存在こそかろうじて知れど、石碑の内容まで読んでいなかったわけだ。

◎幸田露伴の文学碑。シリパ岬で取り出された石で建造
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◎石碑の隣に掲げられた看板。ところで、ここに「金品」を置いていく人がいるのだろうか?
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露伴が過ごした明治20年前後の余市は蝦夷開拓のために本州から多くの人が来ていた。江戸時代には松前藩がアイヌ人との商業を行っていたのもこの町である。
いまでも「旧下ヨイチ運上屋」として、和人とアイヌ人との物流の場が復元され観光客に開放されている。かつて運上屋は北海道の各地に存在していたが、現在遺構として残されているのはここのみである。

◎旧下ヨイチ運上屋。古風な外観は、遠くからも目につく
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かつてはニシン漁に沸き、春になると海岸はニシンで埋め尽くされ、モイレ山から海岸を見渡すと、海はニシンの産卵で真っ白く見えたという。大正時代をピークにニシン漁は賑わい、海岸には数々の漁場やニシンで財をなした漁師のニシン御殿が建った。

◎福原漁場の蔵。莫大な富を蓄えた過去を偲ばせる
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◎漁師が暖を取る「漁夫溜まり」。福原漁場にて
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◎漁夫溜まりの横の床板を外すとそのまま「食堂」になる合理的な構造。福原漁場にて
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◎前面に見える木組みはニシン干し場。福原漁場にて
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ニシンの漁場には出稼ぎの漁師たちが暮らす宿舎と、主人の住居に加え、ニシンを加工する工場も備えていた。きれいなニシンはそのまま食べたり身欠きニシンにして出荷し、型の崩れたニシンは絞ってニシン粕として肥料にする。絞り汁の上澄みは魚油になり、燃料にする。身欠きニシンを作る課程で出た骨やえらも捨てずに肥料にする。隅から隅まで、どこも捨てずにニシンは活用された。
昭和に入って突然、余市からニシンが姿を消した。乱獲が原因か、生態系の変化か、原因が定かではない。日本人なら誰もが知る『ソーラン節』は余市が発祥で、過酷なニシン漁の仕事を活気づけるために歌われた民謡である。
ニシン粕を作る際には、絞ったニシンを干し、発酵させるという工程もある。御殿の周辺には身欠きニシンやニシン粕が魚の臭いを漂わせていた。

◎ニシンを干す様子
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◎浜辺でニシンを細かく解体する女性たち
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漁場からはソーラン節が聞こえ、発酵するニシン粕の臭いが漂う。しかも冬は想像を絶して寒い。環境の変化に弱い東京人露伴にこれは耐え難かったはずだ。こうした状況が、10代の若き露伴の精神に強烈な影響を与えたのは想像に難くない。実際、余市での印象を思わせるような記述や小説は残されているものの、余市に関して具体的に書き残した日記や記述、当時の手紙すら、岩波書店版の露伴全集にはひとつも収録されていない。露伴は基本、自分のことを多く語らない人物であるが、このような、語られないところにこそ、真実が隠されているはずである。

明治20年8月、20歳の誕生日を迎えたばかりの露伴は突如余市を去り、東京に戻ることを思い立つ。その様子は『突貫紀行』に描かれている。これは露伴全集でも青空文庫でも読める。

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身には疾(やまい)あり、胸には愁(うれい)あり、悪因縁(あくいんねん)は逐(お)えども去らず、未来に楽しき到着点(とうちゃくてん)の認めらるるなく、目前に痛き刺激物(しげきぶつ)あり、慾(よく)あれども銭なく、望みあれども縁(えん)遠し、よし突貫してこの逆境を出(い)でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李(こうり)の書を典し、我を愛する人二三にのみ別(わかれ)をつげて忽然(こつぜん)出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内(ももない)を過ぐる頃(ころ)、馬上にて、

きていたるものまで脱(ぬ)いで売りはてぬ
   いで試みむはだか道中
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まるで逃げでもするように、数人にだけ別れを告げ余市を去る。町を去った理由までは具体的に記されていないが、「身には疾あり、胸には愁あり」「未来に楽しき到着点の認めらるるなく」とあるぐらいだから、心身ともにかなりまいり、立ちゆかない状況にあった露伴の姿が目に浮かぶ。
青森七戸の宿での記述にはこうある。

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とある家に入りて昼餉(ひるげ)たべけるに羹(あつもの)の内に蕈(きのこ)あり。椎茸(しいたけ)に似て香(かおり)なく色薄し。されど味のわろからぬまま喰(く)い尽(つく)しけるに、半里ほど歩むとやがて腹痛むこと大方ならず、涙(なみだ)を浮(うか)べて道ばたの草を蓐(しとね)にすれど、路上坐禅(ざぜん)を学ぶにもあらず、かえって跋提河(ばだいが)の釈迦(しゃか)にちかし。一時(ひととき)ばかりにして人より宝丹(ほうたん)を貰(もら)い受けて心地ようやくたしかになりぬ。おそろしくして駄洒落(だじゃれ)もなく七戸(しちのへ)に腰折(こしお)れてやどりけるに、行燈(あんどう)の油は山中なるに魚油にやあらむ臭(くさ)かりける。ことさら雨ふりいでて、秋の夜の旅のあわれもいやまさりければ、

さらぬだに物思う秋の夜を長み
   いねがてに聞く雨の音かな
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山中の宿で露伴の嗅覚に訴えたものがランプから漂う魚油の臭いだったとは、「まだ余市の近くか」と、まるで余市が追いかけてくるかのような印象だったのだろうか。それとも、どこか後ろ髪を引かれる趣すらあったのだろうか。
プルーストの小説にもあるように、嗅覚は強烈に「過去」を思い起こさせる。医学的にも嗅覚は触覚に比して6倍の速度で情報を脳に伝達するという。魚油の臭いがニシンを通し、余市を想起させたに違いあるまい。

露伴の作品には旅や遍歴を扱ったものが多い。彼を流行作家にのし上げた小説『風流仏』は若い彫刻家の恋と心身の遍歴の物語。『観画談』は旅人が山小屋で遭遇する幻想的な日本画の物語。『いさなとり』は、主人公の若者が東京から長崎までさまざまな職業遍歴をしながら鯨漁師として成長する長編小説。ちなみにこの直後、代表作『五重塔』が発表された。

露伴の名作と呼ばれる作品の中には、少なからず旅や遍歴のモチーフが埋め込まれている。余市以降の体験、『突貫紀行』で描かれているような心身の遍歴の物語こそが、初期露伴作品のベースをなしている。余市での体験にまでさかのぼれば、帰京直後にアイヌ人を題材にした長編小説『雪紛々』を発表している。余市というアイヌ人との接触が濃厚な土地で青年時代の2年間を過ごした露伴に、言葉も生活習慣も和人とまったく異なった彼らの存在は、強烈な好奇心を与えたに違いない。

◎大正時代の余市の写真。最前列にはアイヌの人たちが並ぶ。和人とアイヌ人が共に暮らした当時の町の雰囲気が想像できる。余市水産博物館にて
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◎シャチをかたどったアイヌ人の神具。余市水産博物館にて
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◎鮭皮でできた靴。余市水産博物館にて
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露伴は『水滸伝』やモンゴルを舞台にした戯曲など、大陸派生の作品を膨大な数発表しているが、ここにもまた、余市での、言葉も生活習慣も違った人たちとの体験が基盤にあることが想像できる。

露伴は生粋の東京人で、仕事でたまたま北海道に赴任してきただけだが、いろいろな意味で、不安と好奇心が渦巻く2年間だった。好奇心の意味では蝦夷という土地とアイヌという異人種との接近。違和感という意味では東京にはありえない冬の厳しさとニシンの臭い。前者は作家の大陸的な思想を生み、後者は作家の徹底した風流人としての態度を生んだ。このように露伴の感受性が最高度に高い青春時代、余市の2年間は、まぎれもなく彼の人間形成に寄与している。

余市で一念発起して東京で大成した明治の文豪幸田露伴。余市に根を張り事業を大成させたマッサン。余市に生まれ人々に夢と希望を与えた宇宙飛行士の毛利衛さん。この小さな町に、歴史に名を残す人物が何人もいるのは、ただの偶然ではないはずだ。気候や歴史的背景に、人間形成に寄与するなんらかの要因がきっとある。実際に余市に足を運び、町を文豪露伴の青春と重ね合わせ、土地と人の書かれざる深い接点を見出した印象である。

small-●読みました:『意識と本質』(井筒俊彦 著、岩波文庫).jpg

日本人の著した啓蒙書で、ここ20年ほどで最も衝撃を受けた作品。

これは、「本を持ち、街に出よう」活動の一環としてお手伝い・参加した読書会で取り上げられたもの。

意識と本質の書名通り、真摯かつ情熱的に作者がそのテーマにアプローチしていく名著だ。

この作品が題材となったきっかけは、柄谷行人とカントをテーマにした1月の読書会で、「いつか西洋と東洋を横断的にまたぐ思想を探索してみたいですね」と発言したところ、すかさずあがった書名がこの意識と本質だった。


この本のテーマは書名のごとくで、非常に明確なフレームワークが冒頭数十ページで示されている。一つの柱が精神の形而上学で、もう一つの柱が宗教学。前者では本質を捉えようとする意識と言葉の断絶を「分節化」というキーワードで解き明かし、後者ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教という、旧約聖書派生の宗教と、ヒンズー教・仏教・禅・儒教という東洋発生の宗教の相違点と一致点を、「意識」のモデル化を通して解き明かそうとする。


「分節化」とはつまり、意識を言語化する行為。元々言葉のなかった世界の事象に言葉が与えられることにより、分節化ははじまる。たとえば、日本一高い山という意識は言葉のない時代からあったが、ある時点から「富士山」という言葉が生まれた。しかし日本一高い山という明確な意識がある一方で、「富士山」という言葉はあの山のどこからどこまでが対応するのかという疑問も生じる。それが、分節化の限界である。人体にしてもそうで、「首」や「手のひら」という言葉があるにもかかわらず。どこからどこまでが首なのか、どこからどこまでか手のひらなのかは、漠然とした共通認識しかない。


作者はそうした言語による分節化の限界を示しつつ、分節化の底に横たわる本質を捉えようとする「意識」に光を当てる。意識把握の筆頭に、作者の独壇場であるイスラム教を取り上げる。イスラム教の思想には事象把握の方法が2種類あり、一つは対象そのものを把握することと、もう一つは対象そのものの普遍的な性質を把握すること。東洋発生の宗教にも、同じく、事象そのものの把握と、事象を構成する元素の把握という2つのアプローチがある。これらを、フランスの詩人マラルメとドイツの詩人リルケの作風の対比において説明する。マラルメの詩が表層的な描写を通して表層を超えた次元の印象を読者に与えるのに対し、リルケの詩は心の動きそのもの、心の底から湧き上がった感情をそのまま言葉に投影する。つまり意識には、表層意識と深層意識があり、双方の意識を通して人間は本質の把握を試みる。

表層意識と深層意識の双方の取り扱いについて、作者は「禅」に注目する。禅は宗派によりさまざまな解釈があり、それぞれで考え方やアクションが微妙に異なっている。また、禅以前にも、中国天台宗の教典ではすでに禅の原型の考え方やアクションが明確に示され最澄によりそれが輸入されている。

禅とは、一言で言うと、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、新たな分節を再構築する考え方およびアクションである。それを実現するためのアクションが、坐禅である。ゆえに坐禅は言葉を好まない。言葉をいったん解体するために、ひたすら黙って座る。只管打坐とはこのこと。それを繰り返すことで、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、言葉によって構築された世界の外へと出る。


その禅をさらに拡張させたものが、老荘思想に生まれた静坐である。人間にはある意識とある意識が切り替わる間に無意識の時間が生じる。それを「未然」と呼ぶ。修練を通して意識のコントロールができるようになると未然の占める時間の割合が増え、その間に意識は深層心理の原点(著者のいう「意識のゼロポイント」)にまで下降する。こうした静坐といったアクションにより求められるものを「窮理」という。本質すなわち「理」を窮める行為である。


坐禅と静坐との共通項として、本質を掴むために深層意識(分節化されていない世界)と表層意識(分節化された世界)の双方をダイナミックに往来し、双方は再帰的、という点があげられる。そして深層意識と表層意識の間には、意識を分節化(言語化)するタネ(著者のいう「言語アラヤ識」)が存在する。ユングのイマージュのモデルにこれを当てはめると、深層意識と表層意識の間に、下から順に原型(アーキタイプ)とイマージュがあり、この原型に同階層に意識を分節化するタネ(「言語アラヤ識」)が控える。言い換えると、ユング説によれば、イマージュもまた、意識の言語化の結果、である。


にまとめたのは本書の根幹のみで、その他ユダヤ教のカバラやセフィーロート、密教など、東西の宗教を横断したダイナミックな論旨展開となっている。

読んでいてふと思ったのは、意識と本質についてこんなに深刻に考え込んで、そして結論らしい結論も得られず、一体なにが目的なのだろうか、と。そうして自問を続けたどり着いたのは、自分の頭で意識と本質に迫ることが、まさに、自己認識のはじまりである、ということ。自分はどのような心を持って、自分は何者なのかという、自己認識である。そうした自問自答を通し、人は生きる意義や目的、幸福にたどり着くことができるのではないだろうか。


動物は、直観することはできる。だが動物のたましいは、たましいを、つまり自己自身を対象にしているのではなくて、外的なものを対象にしている」というヘーゲルの言葉を思い出した。人間は考えなくても生きていける。しかし、考えることにより世界に対して新しい視界が開ける。そして、より人間的に生きていくことができる。言葉でそれを促すのが啓蒙書の重要な役割だ。その意味で、本書は第一級の啓蒙書である。日本人の著した啓蒙書で、ここ20年ほどで最も衝撃を受けた作品と、冒頭で書いた理由はここにある。この本はきっと、2年後、5年後、10年後に読み返しても、そのときそのときで新しい印象を与えるに違いない。そうした深みと広さのある、素晴らしい作品だった。

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人間由をもたらした革命。

自由・平等・博愛の革命。

もしくは、恐怖政治。

マリー・アントワネットという無意識な人が好き勝手やっていた。

ルイ十六世がダメだった。

実はフリーメイソンの革命だった、など......


フランス革命はいろいろな読まれ方があるが、一つだけいえることは、それは「持てる者」すなわち「お金持ち(ブルジョワジー)のためのお金持ちによる革命」であり、「持てる者」が社会のリーダーシップを取るという、資本主義の出発点だった。反対から見れば、フランス革命がなければヘーゲルもマルクスもいなかったし、共産主義もなかった。


「持てる者」理論を簡単に言うと、思想を行動へと移せるのは「持てる者」であり、それ以外の人は「持てる者」についていきなさい、である。

しかしフランス革命時の「持てる者」(=お金を持つ人)といまの時代の「持てる者」の間には決定的な違いがある。それは、「利殖以外にも関心があった」という点だ。

言い換えれば、利殖をするにもフランス革命時代のお金持ちには障壁が多すぎたので、利殖以前にそれらを取り除くことに関心があった、ということである。その障壁がすなわち「封建制」であり、封建制のトップにいる「王」が障壁の根源、ということになる。それがルイ十六世をはじめとした封建貴族の処刑へとつながり、封建主義者(反共和主義者)の処刑により社会をリフォームしていこうという動きが恐怖政治へとつながる。

そしてお金持ちが封建制と同時に目をつけたのが、大衆の不満意識だ。彼らの中には市民ともお金持ちともつかない「小金持ち」(プチ・ブルジョワ)がいて、「不満意識」という共通点のもと、お金持ちと大衆が連帯した。そしてその連帯を実現するために、お金持ちたちは、「思想」を現実社会に実装しようとした。それが、ルソーやロックなどの「啓蒙思想」である。この点もまた、いまのお金持ちとはまったく異なった立ち位置にある。

「持てる者」とそうでない者が共感し、連帯し、双方にとって気持ちのよい社会を作っていこうという姿勢は、数えてあまりある恐怖政治の犠牲を差し引いても、人類の歴史的な大進歩である。


しかしいまは、フランスの封建時代のような強烈な抑圧は市民にない。さらにいえば、お金持ちと一般市民の間に、「共通の不満」はない。ゆえに、連帯はほぼ無理だ。

言い換えれば、現代のお金持ちと市民の間に、共感や連帯が生まれる基盤はない。だからこそ、現代の「持てる者」は利殖と蓄財といった「自衛」に走る。一般市民やサラリーマンができる自衛とは、わずかな貯蓄と、クビにならない程度に手を抜き働くこと、になる。それによって生産性は低下し、お金持ちはますます自衛に走る。現代のブラック企業の構図が、フランス革命の史実を通してありありと目に見えてくる。つまり、共通の問題点や共通のゴール意識が市民社会の中にない、ということである。それは言い換えれば、切迫した危機感や、切迫した目標、どうしても実現したい理念がないからである。さらに言い換えれば、現代人は物質的に十分恵まれている、ということでもある。もしくは、恵まれていない人は、連帯する影響力や感性がなく、その気力すらない、ということでもある。

ランス革命には人々に強烈な理念と理想があった。


誰からも約束されていない未来に向かっていくこの情熱は、いったいどこから来るのだろうと、何度も考えた。しかし一言で言えば、フランス封建制という「日常の不満からの脱却」が情熱の原動力である。そうした現実を素直に受け入れなかったのは、啓蒙思想家が残した幸福の物語だ。そしてフランス人が共有した幸福の物語とは、ルソーやカントが唱えた、「自由」の物語である。人間の最も幸福な状態とは、自由な状態、という物語が、徹底的に考えられ、思想として書き上げられ、フランス人のナショナルヒストリーに組み込まれていった。


フランス革命の時代には、人々が共感し連帯する素地が備わっており、起こるべくして起こった革命だった、と考えることもできる。

では現代日本の市民の共感や、連帯の素地とは、いったいなんだろうか。


少なくとも、お金を通じた共感や連帯は、現代市民においてはないはずだ。それよりも、意識的な共感や、島国としての土地による連帯の可能性が高いだろう。言い換えれば、昔の日本人に戻りつつ、いままでにない価値体系の中に暮らす、というイメージではないか。この点はまだまだ考えていく必要がある。

フランス革命は、現代の革命の原点であると共に、いまの資本主義社会を読み解くための重要な歴史的ムーブメントである。



■フランス革命のまとめ


●フランス革命の背景

1)ブルジョワジーの啓蒙思想の影響

2)フランスの英国に対する経済的劣等があった

3)資本主義の幕開け


1774年 ルイ16世政策により財政が傾く

→アメリカ独立戦争への支援・戦費がかさむ

→貴族の年金の付与がかさむ

→貴族への課税を実施(→貴族の王権への反発が起こる)


1789年 フランス革命勃発

→第3身分と貴族、国王による内戦(「貴族の陰謀説」が発端だった)

→貴族対農民(旧体制に反対する)の内戦


1789年 714日 バスティーユ監獄襲撃事件

→ブルジョワジーが権力を持つことに


178910月 パリ市民がベルサイユ宮殿に集結


17919月 新フランス憲法公布

→土地の国有化


17928月 王政廃止


1792922日 共和制公布

ジロンド派(ブルジョワと同盟)

ジャコバン派(ブルジョワ派ながら農民と同盟)


1793年 ジロンド派とジャコバン派の対立激化


17935月~6月 ジロンド派追放「ジャコバン政府革命」


1793年~94年 農民による旧体制一掃の要求

→社会政策の実施、ブルジョワの反発


1794年春 ダントン処刑

→ロベスピエールによる恐怖政治


1794727日 ブルジョワによる、テルミドールのクーデター

→ロベスピエールが処刑される


1795年 新憲法発布 普通選挙制を廃止


1796年 「財産と労働をと共にする共同体」の共産主義イデオロギーが現れる。バブーフの陰謀。


1799119日 ナポレオン、クーデターを断行

→軍事独裁

→フランス革命終了

→欧州および世界にフランス革命の思想が拡散

small-●読みました:『一外交官の見た明治維新』(上・下).png
通訳して、親善の仲介役として、日本の政策に進言する参謀として、幕末の日本に配属された若きイギリス人青年外交官の目から見た、幕末から明治初期にかけての日本の姿がリアルに描かれた名著。

この本のリアリティは2つの支点で支えられている。
一つは、実体験を持った人の筆によるものなので、実に生々しい。目の前で本物の幕末が展開されているような印象さえ受ける。
そしてもう一つは、作者が外国人であるという点。
とかく幕末は、日本文化を決定的に切り分けるエポックであると共に、一つのノスタルジーとロマンでもある。
誰かに文書化され大衆に認知されたものが史実として残る。その意味で日本人の手により書き残された幕末像には、それなりのバイアスがかかっていると理解できる。
この考えに立脚すると、イギリス人のアーネスト・サトウが見た幕末像にこそ、西洋人というバイアスがかかった目の付け所や描写が多い、という見方もできる。だからこそ、おもしろいし、リアリティを感じる。日本人のバイアスのかかった幕末のリアリティとの差分を読み解くことで、実際の幕末を注意深く思い描くことができる。だから本書の内容は興味深い。

興味深さの最大の理由は、日本の外から、しかも、イギリス人が幕末を描いた点にある。幕末に日本人がどういった志や考えのもとで列島内で動いたのかという歴史的な動向が、イギリス人の目で、一つの「アジア史」として描かれている。つまり、イギリスやフランスがアジア各国を占領した西欧帝国主義史の中に、日本の明治維新も、アーネスト・サトウの視点によってしっかりとはめ込まれているのだ。

1854年にペリーが黒船で来航し開国を迫った目的がビジネスにあったことは頭に入れておきたい。開国後の日本にイギリスとフランスがやってきて各港で海外物流が活発になった。イギリス人が薩摩藩士に殺害される生麦事件が起こったのが8年後の1862年で、この年にアーネスト・サトウは日本にやってきた。この物語は、生麦事件から1863年の薩英戦争、1864年にかけての下関戦争、そして1868~69年にかけての戊辰戦争を背景にした記録を中心に描かれる。

薩英戦争と下関戦争では薩摩藩と長州藩がイギリス軍や連合国軍の武力に直面し、これでは太刀打ちできまいと、反発から転じて彼らを尊敬する態度へと身をひるがえす。こてんぱんにやられても相手を憎まず、きれいな言い方をすれば「相手の力を敬う」精神構造を日本人は持っている、と、ペリーの来航以来、西洋人は身をもって知った。
「強い者にはしっぽを振るふりをするのが上手な日本人」ともいえ、換言すれば「日本人の備えた高度な処世術」である。

黒船来港以来幕末の志士や藩士が佐幕か勤皇か将来の身の振りに右往左往している一方で、西欧列強諸国はアメリカ南北戦争の中古の武器をせっせと日本に送り、日本人同士を戦わせていた。ここに、西欧帝国主義史の中に組み込まれた日本の姿を直視した。

幕末の日本を見たアーネスト・サトウの言葉を借りると、「とにかく大名なる者は取るに足らない存在」であり、彼らには「近代型の立憲君主ほどの権力さえもなく、教育の仕方が誤っていたために、知能の程度は常に水準をはるかに下回っていた。」という。「このような奇妙な政治体制がとにかく続いたのは、ひとえに日本が諸外国から孤立していたためであった。」と分析。そのうえで「政治の機構がひじょうに巧妙にできていたので、どんな小児でもそれを運転することができた」「こうして政治は沈滞したが、それが政治の安定とはき違えられたのである。」と結論づけている。すなわち、徳川幕府の260年は、安定の260年ではなく、「沈滞の260年」なのである。これぞまさに、変化を進化ととらえ、安定を停滞ととらえる西欧的な価値判断である。

幕府の将軍を、英文では英国のQueenと同じ「陛下」と呼んでいたが、言葉の上で将軍と女王が同格になってしまうので、これでは日本を天皇を君主とした共和国として認め、将軍をその代行者としたいイギリスの意図とは外れてしまう。そのため天皇にはEmperorという訳語を与えたという。このエピソードはとても印象深かった。外交とは、理屈や理論を通して交渉し、相手とこちらをすりあわせる、ということである。天皇や将軍といった他国の機構を自国の言葉で定義し、「外交の言葉を作る」という行為自体が帝国主義の下地にあることが理解できた。日本の皇族はしきたりや振る舞いをイギリス王室にならっているという理由は、幕末のこうしたエピソードからもうかがい知れる。

江戸の無血開城のエピソードで勝海舟は「慶喜の命を守るには戦争をも辞せず」としながら、「そんなことになったら天皇に不名誉を与えるから、内乱を長引かせるようなことは西郷の手腕で阻止されることを信じる」と述べているところも印象深かった。かなり過激な口調で火蓋を切りながらも、「天皇に不名誉を与える」と日本人の心を包括し話の抽象度を上げるという、無血開城を導いた勝海舟の政治手腕が、この小さなエピソードからも響いてきた。

幕末がラストに近づくと、土方歳三などを乗せ北海道に向かったフランス軍の率いる開陽丸が登場するが、作者は彼らを「徳川の海賊」と表現する。

この、イギリス人による日本幕末史は、帰国してずいぶん経って調べ、書きまとめられたものらしい。このアーネスト・サトウという人物の知性や行動力には驚嘆せざるを得ない。当時の日本は恐ろしい剣術を持った尊王攘夷の武士がたくさんおり、白人があちらこちらで斬り殺されていた。危険な日本列島をアーネスト・サトウは徒歩や籠、船舶を利用して駆け巡り、日本とのつながりを結ぶきっかけを作った。

西欧式帝国主義や戦争侵略とは違った形で、日本は西欧列強とのおつきあいを開始したという、アジアでも特殊な事情がこの本からよく理解できた。アジア史における日本の立ち位置を知ることは、今後の日本を考える際に、価値の高い材料になることは間違いない。
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半年以上前の話になるが、今年を代表する貴重な体験だったので、エントリーしておきます。

2014年3月6日(木)上智大学四谷キャンパスで、『資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか』(Capitalist Democracy and the Prospects for Survival)と題するノーム・チョムスキー教授の講演を聞いてきた。
チョムスキー教授といえばプログラミング技術の核ともいえる「生成文法」の理論を確立した言語学者で、同時に世界平和を強く訴える政治活動家でもある。9.11のときの発言や行動を通し、もっとラジカルで激しい語り口のアナーキストと思いきや、実際には穏和で冷静に事実を語る好々爺という印象が意外だった。

1日目のテーマは言語学で、今回参加した2日目のテーマは民主主義の未来。ジョン・ロックやアダム・スミスといった啓蒙思想家の話を皮切りに、新自由主義(ネオリベラリズム)を冷静かつ痛烈に批判する。
チョムスキー教授いわく、『国富論』で「神の見えざる手」を説いたアダム・スミスは資本主義の礼賛者でもなんでもなく、彼ほど資本主義が没落していく姿を予見していた人物はいなかったという。その没落とは、富裕層と貧しい人の間に横たわる貧富格差の拡大で、スミスの予見していた没落は現代資本主義経済の枠組みにおいてすでにはじまっている。
世界経済に混乱をもたらした金融危機がまさにそれで、その犯人を「人類の未来よりも明日のボーナスを大事にする経営者と政治家、そして彼らの間で動くロビイスト」と指摘する。そして、高い失業率と烈しい貧富格差が常態化するアメリカ社会の現状を、「現代の奴隷制」と表現。ウォール街の金融業界を筆頭に圧倒的な富が蓄積され、一方で弱者は搾取され続けるというシステムができあがっている。そうした金融企業が倒れかかっても政府の支援で救済され、利益を手にして彼らは再び富を蓄積する。その支援に使われる原資は、他でもない、貧者から吸い上げた税金である。そして人々から自由を奪い上げる。そうした不健全な循環はアメリカを中心に世界を支配している。

講演のタイトルである『資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか』(資本主義的民主制と生き残りの見通し)に答える形で、チョムスキー教授は「このままでは未来の展望なし」と断言。それを避けるためには、自由に情報へアクセスできるいまこそ、個人は現状を認知し、連帯し、立ち上がること。いまこそ啓蒙の時代である。「産業革命の時代に現れた啓蒙思想に学び、行動しなさい。われわれはどんな生き物なのかと、いま、問われているのだ」、と締めくくった。

拍手喝采のスタンディングオベーションに続き、質疑応答が開始。普天間移転問題や福島の原発事故など、日本人が抱える問題への見解を巡る、さまざまな質問が飛び交った。
普天間移転問題に関しては「日本人自身の問題だから、自らの責任で解決すること」と、日本人の主体性を指摘。福島の原発事故に関しては、「東電が隠している情報の真実を知ろうとすること。また、代替発電の手段も確立すべき。ドイツにはそれができつつある。日本のテクノロジーが結集すればそれができないわけがない」と回答。
どれもこれもチョムスキー教授ならではの判断と示唆に富むものばかりだった。

私は何度も挙手を試みたが採用されず、学生さんが十分に質問してくれればそれでいいだろうと思っていた。しかし、最後の質問で幸運にもその機会が与えられた。そこで根本的なことを2点、教授に聞いてみた。
1つ目は、自由の問題。「チョムスキー教授にとって、自由の本質とはなんでしょう。自由という言葉は、日本人の間で共有できていないと感じているので。」という質問。
そして2つ目は、「そうした個人の自由を手にするためには、どういった行動と考えが必要でしょうか。」
前者に関してチョムスキー教授は、「自由とは本来誰もが生まれながらに持っているもので、それはルソーの時代から何百年も考え続けられた大問題である。自由とはつまり、他人からいわれたことでない、極めて自発的なもの。自分の意志で考え、行動する、それが自由」、と答えた。
そして後者に関しては、「他人との間に共感を生み、連帯すること。」

自由という、日常でも使われる言葉に対して明確な定義を耳にし、私は2つの両極な印象を得た。

一つは、自由とは、「大きな断絶の彼方にある。」
これを感じたのは、言葉の問題だ。「自由」という言葉を私たちは日常で使うが、その意味は欧米人との間でかなり異なる。日本人の考える自由とは、「自由気まま」や「勝手」といったものに近い。一方で欧米人の考える自由とは、個人の自由を保障する社会があり、そのために戦争や闘争を繰り返して力で得てきたもの、守ってきたもの。つまり、「自由」という言葉に対する体感がまったく異なる。数年前、東西ドイツの統一を経験しその運動に参加していたドイツの友人に、市民参加型(民主主義なので市民が参加して当たり前といえば当たり前なのだが)のドイツの民主主義を問うたら、「日本に民主主義が入ってきてたかだか数十年。そうすぐに民主主義国家にはならないよ。ドイツの民主主義は運動や内戦を通しじわじわと時間をかけて市民に浸透してきたものだから。」といわれたのを思い出した。つまり、「自由」に対する体感が、日本人とドイツ人とではまったく異なる。彼らにおいては自由とは、身体の活動を通して手に入れ、守るものである。そうした体感が市民レベルでDNAに埋め込まれている。チョムスキー教授の発言から同様の印象を私は受け取った。

そして、その一方で得た印象は、自由とは、「すでに目の前にある。」
生まれながら持っており、自発的なものである自由は、日本人も持っている。ならば、「日本人の持つべき自由は、欧米人が持つ自由とは異なる」ということに気づく。自由が自発的なものである限り、「欧米式自由」の模倣で自由の実現は不可能だ。つまり、自由は自分で手にし、自分で守ること。かつて日本人が確立した自由へいたるメソッドの一つに「禅」がある。しかしこれは個人それぞれが持つ精神的な態度であり、西洋人の考える自由のように、個人の外部へと限りなく拡がり共有する自由ではない。あくまでも個人の自由にとどまる。これは、日本人と西欧人の宗教観の違いも起因するだろう。

しかし、自由を社会的に実現するソリューションとしての、「他人との間に共感を生み、連帯する」、という方法において、日本人はなにができるのかと考えさせられた。おそらく日本でも、SNSなどのネットの力がそれをになうのではないか。そのために個人は考え続け、対話を続けることが重要である。

しかしながら、いくら社会がフラット化しているとはいえ、ノーベル賞級の大学者さんに対面質問し、1,000円も払えばその人が書いた著作が手に入り(岩波文庫の『統辞構造論』は1,140円+税)、それをいつでもお茶の間や通勤電車の中で読むことができる。すごい時代になったものだという感動があった。時代の節目には(たとえば産業革命以降のイギリスやフランス、明治維新前後の日本など)、このようなこと(大変な人物や大変な出版物との出会い)が何度も何度も起こっていたはずである。

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講演が終了し、記念に著作を買おうと、行列の先頭に着くべく書籍販売コーナーに走った。出入り口の横で書籍販売のブースが設けられていたが、行列などどこにもなく、その場で買っているのは私一人。
あの質疑応答の熱さやスタンディングオベーションとの温度差の乖離に、ある種の肩すかしを食らったのは率直な印象である。

それにしても、素晴らしい講演だった。

チョムスキー教授、いつまでもお元気で、世界を啓蒙し続けてください!

※一部の写真はあくまでもイメージです。『統辞構造論』はまだ読んでいません。
10月18日(土)の午後、『Webデザイン・コミュニケーションの教科書』がAmazonの「デザイン・グラフィックス」カテゴリで1位に、総合で121位にランキングされた。

Amazonのランキングは発売後1、2週間以内に上がっていくことがほとんどだが、この本は発売後1ヶ月を経て登り詰めてきた。

予約時点では著者陣のサイトのインタビュー記事から火がつき、総合で735位へと上昇した。
その後順位は1万位代に落ち着き、colissさんの紹介記事により17日(金)には一気に200位代にまで上昇し、18日(土)の午後には「アート・建築・デザイン > デザイン」カテゴリで1位に、総合で121位にランキングされた。この2日間だけでもAmazonやリアル書店で、結構な冊数を売っていただいた(読者や書店のみなさまに感謝!)。

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17日(金)の夜には著者陣による出版イベント「クライアントのバックグラウンドを考えたビジュアルデザインを実現するには?」が開催され、笑いと対話にあふれ、会場は非常に盛り上がった。それに先駆け10月6日(月)には著者陣つまり秋葉秀樹さん、秋葉ちひろさんと以下の書店を巡り、POPを設置してきた(以下リンク先はそのときの写真)。


こうした身体的な活動がようやく、結果につながったという印象だ。

この流れが全国の書店にも広がり、秋葉さんの力作『Webデザイン・コミュニケーションの教科書』が一人でも多くの読者の手に届くことを、切に願っている。